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フェレンツ・プスカシュ(2)疾走、左利き、小さな大砲

 ギャロッピング・メジャー(疾走する少佐)ワン・フッテッド・メジャー(一本足の少佐)――ホンベドという軍隊のチームのキャプテンであり、少佐の階級にあったフェレンツ・プスカシュを、英国の記者たちはこう形容した。
 少年時代に足が遅いと指摘され、学校への往復をはじめとしてランニングを心がけたプスカシュは、“軽やかな走り”というより常に全力疾走という感じだったという。一方の「ワン・フッテッド」は、彼が左利きで、左足一本でボールを処理し、巧みなカーブパスを送り、強いシュートを決めたからだ――と言えば、80年代サッカーのファンはディエゴ・マラドーナを思い浮かべるかもしれない。
 レアル・マドリード時代にサポータから“カノンチト・プム”と呼ばれたことは前号でも紹介したが、「カノン」(英語でキャノン=大砲)の語尾の「チト」は「小さい」という意味で、つまり“小さな大砲”ということ。ここにも“疾走”“左足”ともう一つの“小柄”、169cmという彼の特色がみられる(マラドーナもそうだった)。
 実際、少年期から仲間内では「Ocsi」(オチ=マジャール語で『おチビさん』)と呼ばれていたようで、自叙伝にも、彼がキシュペストクラブの一軍で初めて試合に出るときにも“オチ・プスカシュ、さあ出るんだぞ”と告げられたと記している。
 小柄で、よく走り、キャノンシュートとパスの技術と、そして類稀な試合の流れを読む力とキャプテンシーを備えたプスカシュの、16歳から39歳までの選手生活は、ハンガリー時代の1956年までと、2年間のブランクの後の58年からのレアル・マドリードでの8年間に分けられるだろう。

 1927年11月17日、ブダペストで生まれた彼は、少年時代を郊外の小さな町、キシュペストで暮らす。
 ハンガリーは第一次大戦(1914〜18年)の後にオーストリア・ハンガリー帝国が解体して独立国となり、サッカーは26年からブロフェッショナルを導入していた。27年から中部ヨーロッパの各国チャンピオンによるミトローパ(ミドルヨーロッパ)カップが創設され、ハンガリーのチームはこの大会で活躍。ナショナルチームは34年のワールドカップ・イタリア大会で準々決勝に進み、38年フランス大会では準優勝。サッカーは国内でも人気ナンバーワンのスポーツだった。プスカシュも子どものころからもっぱら仲間たちとサッカー遊びに夢中になっていた。
 ピッチは、草は生えているが凸凹の多い牧場で、ボールは革製でなくボロ切れや靴下を丸めたもの。みな、裸足だった。9人の遊び仲間を5人対4人に分けての変則サッカーだが、8歳頃にはオチのプレーは目立つようになっていた。スタジアムの壁に見つけた穴にもぐりこんで、キシュペストクラブのトップチームのプレーを見て、その真似をするのも大きな楽しみだった。

 36年に、キシュペストクラブが彼らに目をつけて、少年チームに入れた。実はオチの父親は元プロ選手で、このクラブの一軍のコーチだったが、それまでは息子たちの遊びにはほとんど口を出すことはなかったという。
 初めて本物のボールと靴とユニフォームでプレーするようになった頃、大きいサイズの靴をはいて初めての試合をしたとき、前半は1−2でリードされたが、後半、靴を脱いで裸足になった彼を仲間が見習って、結局6−4で勝った――というエピソードがある(チームのうち、7人が牧場サッカーの仲間だった)。
 クラブに入ってから父親のアドバイスを受け、プスカシュ少年のプレーはぐんぐん伸びる。43年に16歳で一軍に入り、45年、18歳でハンガリー代表となって対オーストリア戦(8月20日)に出場、1ゴールを挙げて勝利(5−2)に貢献した。第二次大戦後に政治の実権を握った社会主義政府は、スポーツ政策の一環として軍隊のチーム『ホンベド』を設立、ここに代表選手の主力を集めることにして、キシュペストクラブを合併した。
 ジュラ・グロシチ(GK)ヨージェフ・ボジク(ハーフバック)シャーンドル・コチシュ(FW)ナーンドル・ヒデクチ(FW)などがホンベドに加わり、49〜50年のシーズンから7年間に5度リーグ優勝。このチームのメンバーを根幹とするハンガリー代表はヨーロッパを制圧することになる。

 オリンピックでの優勝、M型FWの新戦術、ウェンブリーでの勝利、54年ワールドカップでの劇的敗戦が、その都度、世界サッカーに大きな衝撃を与えるのだが、その華やかなプレーと、テニスボールをポケットにしのばせて、絶えず足で触っていた精進ぶりについては、次号で。

(週刊サッカーマガジン2007年4月3日号)

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