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マリオ・ケンペス(6)飾らぬ口調で語る本音の中に潜むストライカーの本能

 高原直泰といういいストライカーのおかげで、アジアカップ2007の1次リーグのテレビ観戦はとても楽しいものになった。準々決勝の相手のオーストラリアには、昨年のワールドカップで日本が敗れた苦い思い出がある。ただし、ドイツでは高温、乾燥の気候に日本代表が悩まされたが、今度のハノイは高温多湿――過酷であることに変わりはないが、彼らの方に荷が重いと見るのが普通である。
 オーストラリアと言えば、40年ばかり前の1968年3月、メキシコ五輪の半年前に日本代表がオーストラリアへ遠征したとき、釜本邦茂が西ドイツ(当時)の留学の成果を発揮してチームメイトや相手を驚かせたのを思い出す。豪州の専門誌記者アンドレ・ディットラが「日本にジョージ・ベスト(マンチェスター・ユナイテッド)に匹敵するFWがいる」と発信したのもこのときだ。
 当時の釜本と違って、高原はすでにドイツでの実績を持ち、日本代表の仲間も彼を信頼し、どうすればその決定力を生かせるかを工夫するようになり、高原もまた、チームの攻めの組み立てに巧みに関わるようになっている。
 今大会での彼の働きで、日本のサッカー界でゴールを奪うこと、そしてゴールを奪うストライカーへの関心が強まることを、私は期待している。

 さて、マリオ・ケンペス。
 78年大会のヒーローとなったケンペスに、82年ワールドカップ・スペイン大会での活躍を望むのは当然だった。なにしろ、天才ディエゴ・マラドーナも優勝チームに加わるのだから――。
 60年10月30日生まれのマラドーナはケンペス(54年7月15日生まれ)より6歳若く、国内で早くから知られた神童ぶりは、79年の国際試合や日本での第2回ワールドユース(現U−20ワールドカップ)で広く世界中に知れわたり、わが国でもマラドーナファンは激増した。
 しかし、ケンペスにとっての3回目のワールドカップ、82年大会は不作だった。
 一つにはフォークランド(アルゼンチンではマルビナス)諸島での戦争で英国に敗れ、アルゼンチン国民の士気が低下し、それが代表チームにも影を落としていたこと。そしてまた、マラドーナのバルセロナFCへの移籍問題が、チームや本人の気分に微妙に影響していた。78年の、あの黒い髪をなびかせて疾走するケンペスの姿はなく、あの颯爽たる面影はどこにもなかった。
 ケンペスはチームの中心ではなく、中心たるマラドーナもまた中心の役割を果たせないまま大会は過ぎた。

 ケンペスの代表チームでの仕事はこの年で終わる。43試合出場、20得点。バレンシアでは途中で1シーズン抜けることはあったが、184試合で116ゴールを記録している。
 オーストリアでもプレーし、コーチ業に転じてからバレンシアをはじめインドネシア、アルバニア、ベネズエラなどのクラブの監督を務め、後にはアメリカのスペイン語放送でのテレビ解説者となっている。
 78年があまりに華々しかったために、その後が寂しく見えるが、謙虚な人柄は多くの人に愛され、アルゼンチンとスペインでのゴールハンターの実績は、今なお世界で、サッカー人の尊敬を集めている。

 79年に来日したとき、彼と78年決勝の3点目の話をした。ダニエル・ベルトーニとケンペスの2人のドリブルと、ペナルティーエリア付近での浮き球のパスのやり取りからベルトーニが決めた――いわばアルゼンチンらしい狭い地域を突破してのゴールだが、その2人のドリブルの前にハーフライン付近のFKがあって、ケンペスがそれを左サイドのアルベルト・タランティーニにパスした。そのタランティーニからベルトーニにボールが渡って攻撃が始まる。その、いったん左へ散らしたところが、この攻めのミソだと私は思っていた。
「いや、あれはオマール・ラローサが蹴ったのです。実は私は疲れ果てていたので、とにかくサイドへ蹴ってくれと言ったのです」
 ボールを散らしてから縦に攻めようというような計画的なものでなく、少しでも休みたかったからだという。それが、一息入れた後、今度はチャンスとみて走りだしたところがストライカーの本能なのだろうか。別の見方をすれば、ケンペスの休みたい気配がオランダ側にも伝わって、相手も一息入れたのかもしれない。それがまた、ケンペスのダッシュにオランダの対応が遅れることになったのかも。
 飾らない口調で語る彼によって、サッカーの語り部もまた新しい目を開いたような気がしたのを覚えている。


(週刊サッカーマガジン 2007年7月31日号)

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