賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >バルセロナのエレラ監督

バルセロナのエレラ監督

 この両チームの対抗ぶりを見ると、わたしは1960年代のあるエピソードを思い出す。それはアルゼンチン生まれのエレニオ・エレラ(HELENIO HERERA)のことだ。

 1916年生まれだから、わたしより8歳年長の彼は、18歳のとき、故郷アルゼンチンから両親とともにフランスに移り、帰化したのち、レッド・スターでプロのキャリアをスタート。いくつかのチームでプレーしたのち、1945年にコーチとなる。古巣のレッド・スターやストード・フランスなどでの指導経験のあと、スペインに移ってアトレティコ・マドリー、バリャドリー、マラガ、コルーナ、セビリアなどで実績をあげ、それを見込まれてバルセロナの監督となる。

 ときはレアル・マドリーの黄金時代。ミゲル・ムニョス監督のレアルはディ・ステファノを軸とする強力チームだったが、バルセロナは、スペイン・リーグでレアルを押さえて1958−59シーズンに優勝した。国王杯(COPA del REY)にも勝って、二冠のバルセロナは、次の1959−60シーズンのヨーロッパ・チャンピオンズ・カップに出場した。

 エレラ監督の誇るFWラインは“伝統的”名手のクバラに、無敵のハンガリー、あの50年代のマジャール軍団の点取り屋、コチスと彼の仲間ジボール。“小さなブラジル人”と呼ばれたストライカーのエバリスト、さらにはスペインの生んだ最高のインサイド・レフト、ルイス・スワレスらがいた。

 スペインの2タイトルと欧州のタイトルのトリプル・クラウンをめざすバルセロナの前に、またまたレアルが現れた。1955−56シーズンの第1回から4年連続してヨーロッパ・チャンピオンズカップを制していたレアルは、前回優勝の資格で参加し、準々決勝でバルサと対戦した。
 結果は3−1、3−1、檜舞台に強いレアルの圧勝だった。


(サッカーダイジェスト 1989年6月号「蹴球その国・人・歩」)

↑ このページの先頭に戻る