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ケルト人の国。苦難の歴史

 ヨーロッパ大陸の北西、ブリテン島とアイリッシュ海を隔てたアイルランド島は、長さ4,000キロ、幅250キロ、島の面積は世界第18位と辞書にある。この、北海道とほぼ同じ大きさの島は、古くはイエハネ、アイバーナ、ヒルベニアなどとギリシャ語やラテン語で呼ばれていた。

 イベリア半島の、どこかからやってきたケルト人がこの島に住むようになったのは、古代ローマよりまだ以前だったか――。彼らの仲間の一部は、いまのフランス(ローマ時代はガリアあるいはゴールといわれた)へ入り、あるいは対岸のブリテン島の北部、いまのスコットランドへも住み着いた。そのブリテン島へ、後世になってアングロサクソン人が入ってくる。やがて、アングロサクソンのイングランド勢力がアイルランドも押さえつけてしまう(アイルランドは一時期デンマーク人が都市をつくるが…)。そんな歴史の流れに、カソリックとプロテスタントという、ヨーロッパの宗教問題が絡んで、アイルランドは英国の支配下で長いあいだ苦しい時代を過ごす。

 時代は流れ1921年、独立運動の末、この島の南部26州が自治領となり(アイリッシュ・フリー・ステーツ=アイルランド自由国)1949年には共和国として完全に独立する(ただし、北部、北アイルランドは英国に残る)。

 サッカーにも、こうした複雑な歴史が影響している。伝来のケルト語は、公用語であっても話す者は少なく、英国の経済、社会の大きな影響を受けながら、英国人、アングロサクソンへの反発は強かった。同時に、同じケルト系であっても(カソリックだから)宗教上、北アイルランドとスコットランドとも対立。IRA(アイルランド共和国軍 Irish Republican Army)と称する一団の北アイルランドでのテロは、この宗教対立がもとでもある。

 昨年のワールドカップ(以下W杯)での代表チームの働きは、どれほど国民を勇気づけ、励ましたか――。誇り高きアイルランドにとって、イングランドに劣らぬ見事な成績は、まことに胸のすく思いだったろう。
 元イングランド代表のジャッキー・チャールトン監督に「名誉アイルランド人」の称号を贈ったのも、この国の人たちの喜びと感謝を表している。


(サッカーダイジェスト 1991年3月号「蹴球その国・人・歩」)

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