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釜本邦茂(7)弱者を強者への決意でJSL最下位ヤンマーへ。67年開幕戦デビューで2得点

 1967年3月25日に早大の卒業式を済ませた釜本邦茂は、4月にヤンマーディーゼル株式会社に入社してサッカー部に入り、4月9日、3年目を迎えた日本リーグ第1節の対豊田繊機(大阪・長居競技場)で2ゴールを挙げ、3−2の勝利に貢献した。
 東京オリンピックの翌年にスタートした企業8チームによる全国リーグは、プロ野球以外の日本のスポーツでのまったく新しいイベントとして注目されて、人気を呼んだ。3年目のこの開幕戦の試合のうち、東洋工業(現・広島)対三菱重工(現・浦和)古河電工(現・千葉)対八幡製鉄(新日鉄)と長居の3試合が、それぞれNHK教育、TBS、NET(現・テレビ朝日)でテレビ中継が行なわれたのだから、メディアの関心の高さが知れる。前年の最下位と6位の対戦にテレビがついたのは、釜本が目当てだったのは言うまでもない。
 関東大学リーグ4年連続得点王で、早大の最終学年の年には、関東大学リーグと、全国大学選手権で優勝した二冠の上に、天皇杯でも日本リーグ勢を倒して優勝。学生チーム初の三冠となっていた。
 彼はまた全国スポーツ記者の投票による66年度最優秀選手にも選ばれ、試合当日の表彰式でトロフィーを受けていた。

 釜本のデビュー戦。驚いたのはキックオフ直後のヤンマーの選手が、緊張でガチガチになっていたこと。ぎこちない動きはファウルとなり、そのFKから開始2分で先制点を奪われた。暗い空気を吹き払ったのが、3分後の彼の30メートルのシュートだった。バーをかすめたライナー性のシュートに観客はどよめき、チームも少し落ち着いた。そして、前半23分に右CKから釜本のヘディングが決まって1−1となった。キッカーはやはり新人の水口洋次だった。
 ヤンマーは後半10分に釜本からのパスを水口が決めてリードを奪い、その15分後に釜本が2人をドリブルでかわしてシュートを決めて3−1。その後の相手の反撃を1点に抑えた。JSLの初陣で、実力どおり働いてみせる釜本邦茂という若い(23歳の誕生日の6日前だった)ストライカーの“星”の強さに驚きながら、私は前年夏以来の、彼との関わりを反芻していた。

 それは彼がヤンマー入りを決めた日のことだった。66年7月初めの夕方、川本泰三さん(関西教会理事長)と、毎日新聞のスポーツ記者でJFA技術委員の岩谷俊夫くんの2人がやってきて言う。
「今日、ヤンマーの山岡浩二郎サッカー部長と釜本邦茂、川本泰三が話し合って、釜本がヤンマーに入ると決まった」と。

 早大4年生の彼がどこへ行くのかは、注目されていた。父親の正作さんが当時、三菱重工に関係していたこともあり、三菱が有望とみられていた。京都・山城高出身の彼を関西へ、という声もあった。そんななか、自らもストライカーであり、早大の先輩でもあった川本さんが、彼を大阪へ呼んで説得した。釜本はヤンマーがどのようなチームか知らなかったが、チーム強化に懸ける山岡さんの熱意や、関西を強くしたい川本さんの意向、そして、釜本自身の上達のために単身のドイツ留学も考えている――といった話に、ヤンマーへと気持ちが決まった。
 気配は察していたが、急転直下の決定に、いささか驚く私に岩谷君が言う。「このビッグニュースをどうするか、賀川さんの意見を聞きたいと川本さんが言うのです。2人だけの特ダネにしてくれてもいいともね」。

“特ダネ”はありがたいが、このビッグニュースを独り占め(いや2人占めか)は具合が悪い。2人ともサッカー畑、いわば内輪の人間だ(当時はインサイダーという言葉を知らなかったが……)。
「明日ヤンマーで発表できないかな」「そんな準備はしていない?」「関係者が3人以上なら、必ずどこかからすぐ洩れるのは、野球のストーブリーグを見ても明らかだからね」「ならばまず、今日の話を記事にすること。そして、特オチの出るところがないようにすることだ」。
 私と岩谷君は2人で、こんなやりとりをして、各社の最終版の締切り時間を見計らって、私がスポーツ紙のデスクに、岩谷君が、朝、読、と共同通信に知らせることにした。釜本には電話して、深夜12時までは他言無用と言っておいた。

 ニュース合戦の現場にいる個として異論があるのを承知で、2人がこう決めたのは、釜本邦茂という大器が伸びていくためには、できるだけメディアの人たちに好意を持ってもらうこと。特オチなどによって、彼へのシコリを感じることのないようにしたい、と考えたからだった。
 翌日の全紙でヤンマー入りが報じられた。三菱からの変心と取るところもあっただろうが、嫌味な後追いの詮索記事は週刊誌にも出なかった。
 彼は代表チームとともに、この後すぐ欧州遠征に出発した。超大物の入部が決まりながら、JSLから転落危機のヤンマーは大変なことになるのだが……。


(週刊サッカーマガジン 2008年12月16日号)

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