賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >フランスで見る夢‘98W杯サッカー(2)半世紀の目 By平井 桂月

フランスで見る夢‘98W杯サッカー(2)半世紀の目 By平井 桂月

大きな揺れとともに、半世紀近くかけて集めた段ボール箱70個分の資料は散逸し、台無しになった。1995年1月の阪神大震災。半壊したマンションの仕事場で、サッカージャーナリスト、賀川浩さん(73)=兵庫県芦屋市=は、ぼうぜんと立ち尽くした。

「これまでの記事や世界中の資料を集大成したサロン形式のミュージアムを造り、サッカー愛好者に開放したい」。そんな構想に踏み出す矢先だった。


神戸で育った賀川さんは、小学校からサッカーを始めた。戦時中は学徒動員で特攻隊員に。「あすは沖縄に出撃か」と覚悟したところで終戦を迎えた。復員し、クラブチームに属す。天皇杯準優勝の経験を経て、52年に新聞社のスポーツ記者になった。

駆け出し時代に図書館で見た米国の雑誌「ライフ」が、その後の運命を決めた。サッカーのクラブチームの飛行機事故で国中が悲しみにくれるイタリアの写真。「日本でこんなことがあるのかな、分かったつもりだったが、もっとサッカーを追求してみようと思った」と、賀川さんは振り返る。

74年のワールドカップ(W杯)西ドイツ大会。広告とのタイアップ記事を書く条件で自費で渡航した。「当時の日本人記者は、ほとんどが自費の取材。100万円貯めて持っていった」。マンションの頭金に相当する金額だった。

それ以来、W杯に病みつきになった。フリーになったあとも、サッカーをキーワードに、各国の文化を紹介した紀行文を雑誌に寄稿し続ける。


7回目の取材となるフランス大会。貴重な資料を失った阪神大震災の傷を乗り越え、賀川さんは日本人の最年長ジャーナリストとして参加する。それを前に、うれしいニュースが届いた。関西のサッカー好きの若者たちが協力してインターネット上に「Kagawa Soccer Library(賀川サッカー図書館)」を開設してくれたのだ。ミュージアムの夢が形を変えて、かなった。

「アジア予選の通過は当たり前ですよ」。初出場の日本代表に、ベテラン記者の目は厳しい。だから、フランス行きを決めたジョホールバル(マレーシア)には行かなかった。しかし、W杯の夢舞台で初めて日本のユニフォームを目にした時に、「偉そうなことを言っているけど、冷静に見られるかどうか」。賀川さんには、自信がない。


(毎日新聞 2002年5月9日)

↑ このページの先頭に戻る