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釜本邦茂(18)メキシコ五輪3位決定戦。試合後にベッドへ倒れ込んで動かず、死力を尽くしたイレブンにクラマーも感動

 1968年10月24日、アステカ・スタジアムでのメキシコ・オリンピック大会3位決定戦は、日本が前半2−0でリードし、後半はメキシコの一方的な攻撃が続いたが、無失点で切り抜け、2−0で勝利をつかみ、銅メダルを獲得した。

 後半はじめの2分に日本はPKを取られて決定的なピンチとなった。GK横山謙三が、キッカーのビセンテ・ペレーダの狙いを読んでキャッチしたが、決まっていたら、その後の展開はどうなっただろうか……。このPKだけでなく、日本側がヒヤリとする場面はその後も何度もあった。83分にノーマークのベルナルド・エルナンデスのシュートが外れると、観客から大ブーイングが起こった。
 観客は「ハポン(日本)、ハポン、ラララ」と唱え始め、メキシコの選手たちには気の毒な感じになった――と現地からのリポートは伝えている。

 10月14日から11日間の6試合、何度も言うようだが、それも2,000メートルを越える高地での戦いだから、もともと、運動量と組織で個人技の劣勢を補う日本代表にとっては“過酷日程”。銅メダルへの戦いはまさに“死力を尽くす”ということだったろう。
 試合が終わり、3位の表彰式を済ませてバスで選手村に戻った選手たちは、部屋に戻るなり、ベッドに倒れ込んで、しばらく起き上がれなかった。
 デットマール・クラマーは「長いコーチ生活の中で、選手全員がこれだけ試合に全力を尽くし、燃え尽きるまで戦ったチームを初めて見た」と今も思い出し、語るたびに涙ぐむ。

 大阪のオリンピックデスクにいて、試合後の釜本邦茂と家族たちとの「電話対談」を企画していた私は現地のT記者にその手記を頼み、ヤンマーの山岡浩二郎総監督や釜本の家族に大阪の新聞社の役員室に待機してもらっていたのだが、ベッドに倒れ込んで、疲労のために眠ってしまった姿を見て、「起こして電話対談など言いだせなかった」と言ってきた。T記者自身も学生時代にラグビー選手だったから「全力を尽くした」姿に心を打たれたのだろう。
 じゃあ、1時間後にということで、彼が再び選手村を訪れたが、選手たちは一眠りから起きて、30分後に全員で食事しようと外出してしまった後だった。

 監督の長沼健さん(故人)は後に、この大会を語るとき、自分たちは「一つのチームだった」と言った。まさにチームワークの勝利だが、日本のファンがサッカーという競技での「得点」の重みを感じたのも、そのゴールを奪う優れたストライカーの存在の大きさを改めて知ったのもこの大会だった。

 釜本は日本の全9得点のうち、7ゴールを記録した。右足のシュートで4点、左足シュートで2点、ヘディングで1点。ついでながら、残りの2ゴールはともに渡辺正で、2点とも釜本のアシスト、ヘディングパスと右足パスだった。
 足のシュートではドリブルシュート、胸でトラップしてのシュート、足でトラップしてのシュート、ダイレクトシュートとさまざま。シュート位置はペナルティエリア内、エリア外もあり、35メートルの長いシュートもあった。
 その彼へのラストパスの供給者は杉山隆一が4本、八重樫茂生が1本、宮本征勝が1本、相手GKのミスキックが1本となっている。チーム全体の考え方がスイーパーを置く多数防御で堅く守り、攻撃には手数を掛けずに釜本の得点力を生かすことだった。
 2月10日号のこの連載で「メキシコへ出発する日、羽田空港で杉山が私に『今度はパスを出す役』と語った」というくだりがあるが、杉山から釜本へのパスはタイミング、強弱、高さなどまことに見事だった。小柄で俊足、突破力と得点力で知られた3歳上の彼は、釜本にとっても、目標となるライバルだった。アシスト役に回ると決めたのは、もちろんチームの方針があったからだが、釜本の大会前年からの急速な充実ぶりを感じ取ったからに違いない。

 彼が選手生活を終わってからしばらくして川本泰三氏(ベルリン・オリンピック代表。第1回JFA殿堂入り)とともにサッカー談議をした。そのとき、かつてCF(センターフォワード)であった川本さんが“ストライカー”杉山隆一から“パサーへの変身”の心境を尋ねた。
 その時の答えは、「僕は自分のボールの持ち方でどこへパスを出すかを分からせるようにしました」とあっさりしたものだったが、そこに彼の意地を見る気がした。
 我が家にある寺尾皖次さん(元・テレビ東京プロデューサー)から頂いた3位決定戦のビデオ録画で、凸凹もあり、ミスの出やすいスリッピーなグラウンドで、ここというときに、ピタリと息を合わせて2ゴールをもぎ取った場面を見るたびに、2人のストライカーの合作の素晴らしさと日本サッカーの技術の集積を思うのだった。


(週刊サッカーマガジン 2009年3月24日号)

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