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二人の先輩に思う日本のストライカー

“得点機械”川本泰三

 釜本邦茂選手がヤンマーに入り、彼の力とヤンマーの強化策が当たって、大阪のサッカー熱が急激に盛り上がった頃、私の古い友人で、野球選手だったM氏が「釜本、釜本と偉い評判ですが、昔の川本、二宮と比べて、どんな人ですか」と聞いてきた。サッカー畑でない、このM氏も、やはりスポーツ好きなだけあって、川本泰三(かわもと・たいぞう)さんや、二宮洋一(にのみや・ひろかず)さんの名前を覚えているのだな、と嬉しくなったものだ。

 80年の歴史を持つ日本サッカーで、その草創の頃から、多くの名プレーヤーが生まれたが、ベルリン・オリンピックの頃にまだ小学生だった私には、あまり古い時代の先輩には接する機会は少なかった。したがって、日本のストライカーの系譜を考えるとき、まず、このお二人の名がM氏と同じように浮かんでくる。
 川本泰三さん(元・関西サッカー協会会長)は、大阪出身で、市岡中学から早稲田に進み、高等学院(大学予科)の時からレギュラー、東西対抗の東軍のメンバーでもあり、大学リーグでも“得点機械”と言われるほど、どんどん点を取った。
 釜本選手が早大4年連続得点王になったとき、その得点数を新記録とするかどうか、関係者は迷った。記録として記載されたものは見つからないのだが、川本さんの得点の印象が、当時の大学関係者には、あまりにも強烈に残っていたからだった。

 長身でスリムな川本さんは、ボールと遊ぶのが子どもの時から好きだったらしい。早稲田では、朝、下宿を弁当を持って出て、高田馬場の学校へ行くのでなく東伏見のグラウンドへ行って、一日中ボールを蹴っていた、というのが伝説になっている。ドリブルし、シュートし、その中に試合の場面を想定し、大きなジグザグを柔らかく描くドリブルや、小さくボールを浮かして相手をかわし、相手のタックルを外したとき(あるいはボールを受けたとき)に、既にシュートの体勢に入っている、という独特のスタイルを編み出した。
 中学生(旧制)の頃はドリブルが上手だが、点を取った記憶はあまりないというから、得点能力に目覚めたのは早稲田へ入ってからだったようだ。シュートは、釜本のような豪快というより、低くコントロールされたボールが、ゴールの下隅へきっちり飛んでいった。シュートのタイミングを早くするために、つまり、1秒の何分の1かを早く蹴るために、膝から下のスイングを使って、随分工夫したらしい。

 釜本邦茂選手に、チャンスボールを受ける前に“消える”ことを説いたのも、川本さんだった。彼も、この大先輩の影響を強く受けている。
 川本さんは、早稲田の頃に(今でいえば22歳までに)既に“消える”といったポジショニングの極意を感得したが、そのためには、随分、仲間に厳しい要求を出した。敵の視野から、ほんの一瞬でも消えてしまうためには、仲間が、その間、ボールをどこかで持っていなければ(間=間を稼がなければ)ならなかったし、ゴール前の得意のシュート地帯に現れる川本さんへのパスの高さや強さまで注文を付けられたという。
 第2次対戦後のある時期に、川本さんと大阪クラブや日本代表でプレーした我が兄・賀川太郎や友人・岩谷俊夫(故人・毎日新聞)らも、このストライカーからの注文を果たすために上達したものだ。


ゲームを支配する、二宮洋一

 二宮洋一さんは、私より7歳上。多くの読者にお馴染みの大記者・大谷四郎氏より神戸一中で1年上だった。川本さんほど上背はなく、当時の日本人の平均の大きさで、したがって、いわゆる(その頃のイングランドの概念からする)センターフォワードとしては小柄な方だったが、すごい瞬発力で高い球をヘディングし、高速の急旋回に続く力強いシュートをして、その頃のサッカー界の“華”だった。ボール扱いは器用で、また自分で、浮き球を使ってのドリブルなど、新種のフェイントやステップを開発するのに興味を持っていた。川本さんも二宮さんも利き足は右だったが、左のシュートも正確だった。二宮さんの左は、今の釜本選手と似た角度で、インフロント気味で叩くから、左前へ突進すれば、きっちりと、ゴールの右上角か左下角へシュートが飛んでいった。右は、アウトサイド、インサイドが自在で、膝から下だけで強いシュートができたから、ボールを止めて突っ立ているときでも、GKには気の許せないストライカーだった。
 最盛期の二宮洋一さんは、ヨハン・クライフのように一人でゲームをリードし、得点し、そしてクライフよりも、闘志を表面に出してチームを引っ張り修羅場で戦っていた。

 2人とも、ボールテクニックに優れ、シュートが上手で、ドリブルが得意だった。それでいて、全くタイプが違うのが、私には面白かった。サッカーのプレーヤーの個性というものを私が強く意識するようになったのは、2人のせいかもしれない。
 性格も、プレー異なる2人に共通していたのは、どちらもゴールへの執念というか、執着だった。川本さんに試合の話を聞くときは、いつも自分のことが中心で、そのシュートの場面、そこへのもって行き方を、克明に覚えているのに感心した。自分がシュートしたボールを仲間がかっさらって変わりにシュートしたことまで覚えていた。
 二宮さんに、ある時中学生の頃の試合を訪ねたら、その1ゴールを詳細に語ってくれた。
 どちらも、得点するという特技から、チーム全体を引っ張ってゲームメークというところに到達した人達だった。

 釜本邦茂選手は、その2人の先輩より、体格も大きく、そのプレーのスケールも違っているが、得点への執念、そしてそのための工夫、という点では、全く共通している。
 ストライカーとしての各種の技術を一つに結びつけ、試合毎に、ゴール!! を生み出すのは、結局、この得点への執念なのかも知れない。


(サッカーマガジン 1984年12月1日号)

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