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大いに見聞を広めよう

8ヶ国へ2ヶ月の大旅行

「えっ、なに? ドルトムント遠征だって…知らないな」と多くサッカー・ファンは言いそうだし、ごく協会に近いサッカー人でも今では「うん、そんなことがあったかな」と言いかねない。ことほどさように、この遠征の影がすでに薄くなっているとは奇妙なことだと思っている。
 ときは昭和28年。日本はまだ経済的にも気持ちのうえでも敗戦国だった。今のように老いも若いも何のくったくもなく世界を闊歩するなどは夢物語の時代だった。サッカーが戦後初めて海外遠征に出たのは、その2年前の26年。インドのニューデリーで開かれた第1回アジア大会だったが、そのメンバーは監督兼選手の二宮洋一さん以下専任役員なしの選手16人だけという窮屈な編成だった。また同年冬にはスウェーデンのヘルシングボーリュが来て初めて本格的欧州サッカーを見せたけども、全日本が相手をした2試合を含む全6試合でヘルシングボーリュの全得点36に対し日本側は得点0という、我がサッカーの大きな立ち遅れを示した。翌年のヘルシンキ五輪に日本の復帰は認められたが、サッカーなどの団体競技の参加は内外の事情がまだ許さないと見送られた。その頃サッカー協会の年間予算は400万円台からようやく500万円台へ上がりかけてはいたが、それでも現在の50分の1にすぎなかった。

 その時、20人の学生選抜チームを遠くヨーロッパに送り、ほぼ2ヶ月に近い遠征旅行をさせようというのである。もちろん、きっかけはあった。西ドイツのドルトムントで催された国際大学スポーツ週間へ陸上、フェンシングとともに参加が決まり、そのために政府からわずかながら補助金が出たからだった。その会期は1週間にすぎなかった。ところが日本協会はなお50日に近い余裕をくれて大いに見聞を広めてこい言ったのである。ドルトムントだけならばすでに航空機の時代だから前後を入れても2週間で十分なのに、そのまま帰るにおよばない、スポーツといえどもこれからは世界的視野が必要だから、将来の指導者となる学生はこの際各地を回ってサッカーだけに限らず文化、社会何でも見てこい、というのだからまさに画期的な企てといえたのである。

 こうして役員3人、選手17人の日本学生選抜サッカー・チームが編成された。団長兼渉外が竹腰重丸さん、副団長兼会計が松丸貞一さん、コーチ兼雑役が大谷四郎すなわち僕だった。選手は関西学院が井上健、木村現、徳弘隆(現姓水野)、平木隆三の4人、早稲田が山路修、小田島三之助、慶応が小林忠生、鈴木徳衛、関大が筧晃一、岩田淳三、立教が玉城良一、高林隆、中央が三村恪一、長沼健と各2人、あとは一人ずつで東京教育大の村岡博人、明治の山口昭一、東大の岡野俊一郎と東西9校のリーダー・クラスが選ばれた。この中にはこの春に卒業したばかりの新OBが6人いたけれども、ドルトムント大会の年齢規定で許されていた。

 ヨーロッパ遠征といえば、いまでこそごく気軽に出かけているが、当時のサッカーにしてみると、この学生選抜以前のベルリン五輪のただ1回きりしかない。それもオリンピックだからこそ行けたともいえるもので、この学生チームのようにドルトムント大会があったとはいえ単独行にも等しいヨーロッパ遠征はサッカー史最初の試みであった。
 遠征特別予算は、約1300万円で、同年の協会年次予算約550万円の2倍以上だったことでも容易な企画ではなかったことが察しられるだろう。そのうち政府補助は240万円にすぎず、航空料金にもはるかに足りないので、選手所属の各校サッカー部が510万円を負担し、財界などから寄付金550万円を集めた。それでも1300万円で旅程を組んでみたら滞在費は30日分しか出てこなかったので、あとの20数日分は、あまり当てにならない試合のギャラや民泊などによる食い延ばしといった現地調達主義で埋め合わせることにした。相当な貧乏旅行であり冒険旅行であった。


なぜ忘れられたか

 こんな状況にもかかわらず、一行は7月24日羽田を出発し、イタリア、西ドイツ、スウェーデン、フランス、ベルギー、イギリス、スイス、ユーゴの8ヶ国を訪ね、12試合を戦って57日目の9月18日羽田に戻った。当時のサッカーが戦後の再建にかけた意気込みをうかがわせた、まさに画期的遠征だったと表現して何のさしつかえもなかろうと思う。  ところがいまでは、このヨーロッパ行がサッカー史上でさしたる評価も与えられていない。いや、ほとんどサッカー人の記憶から消えようとしている。なぜだろうか。  一つには、その後に来たクラマー氏の足跡とメキシコ・オリンピックの銅メダルがあまりに光り輝きすぎて、いまではクラマー以前に日本にサッカーはなかったかのように扱われているからだろう。まずマスコミがそうすることに始まってサッカー人でさえ戦後派はそう考えるようになり、したがって一般にもまたクラマー以前には目が向けられなくなっているのは事実である。大ざっぱにいえば、こうした時流のなかへ28年の遠征は簡単に吸い込まれて姿を消したともいえる。

 もう一つは、協会が遠征の収穫を広く国内のサッカー界へ伝えようとしなかったことにもよるだろう。はたして収穫があったのかと問われれば、20人20色、一様にはいえないかもしれない。竹腰さん、松丸さんのように既にサッカー歴の古い方々、それに比べて経験の浅い学生選手では同じ欧州サッカーの受け取り方も、おそらく相当の違いはあっただろう。そのときの土産でいまも明白に残っているものはあるかといわれると、ベルリンの時の3FB制に似たものはない。だが、いまサッカー指導層の中心にある長沼、井上、岡野、平木の4君がそろって同時の選手だったことを思えば、協会が将来の指導者候補に見聞を広めてこいと旅に出したねらいは今生きているといえないこともなかろう。果たしてあのとき4君が何を得たかはたずねてみないと分からないけれども。
 そうして両者の中間にあった僕は、また違った受け取り方をしていただろうが、僕個人に関する限りはたっぷりと収穫はあったのである。少なくとも、そののち世界のサッカーの推移を見てびっくり仰天したことはなかったし、予想もつかなかったようなサッカーに出会ったことのなかったのも、あの遠征経験のおかげだと感謝している。

 ともあれ、遠征をしたからにはその経験を各個人の範囲にとどめておかず、全体を吟味整理したうえで協会の機構を通じて広く伝えサッカー界の共有財産にしなければならないはずである。ところが心意気は盛んだった協会ながらそうした作業力は欠いていたのであるわれわれ3人の役員にも一半の責任はあった。チームとしてまとめて機関紙「蹴球」に載せようともしなかった。僕は朝日新聞の記者だったから同紙とアサヒ・スポーツ(戦前からの週間スポーツ誌でいまは廃刊)に何回か報告記事を書いたけども、“サッカーの神様”竹腰さんをさしおいてはどれほどの権威をもって読んでもらえたかは疑わしい。
 あるいは、遠征の試合成績が立派だったら評価が大いに違っていたかもしれないが、何せ大会成績は2勝2敗で10ヶ国中の6位、そのほかに8試合して1勝1分け6敗だった。内容はどうあろうと、これでは世間の関心をひく期待もできそうになかったのは当然かもしれない。
 こうした諸事情が重なって大壮挙もいまでは影が薄らいだが、サッカーが戦争による断絶から再起しようとしたとき何があったかを書き留めておくのも無意味ではなかろうと、20年前を思い出してみようと考えたしだいである。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年1月号)

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