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ジュネーブ スイス その1


ミスター・オオタニ・アンド・ヒズ・パーティー

 午後2時ごろホテル・ドゥ・ルュシューに落ち着いたところで、早速僕はプッハー旅行社の代理店を訪ねた。Fさんがロンドンへ連絡してくれたとおり全ての手配ができていた。その日はジュネーブ泊り。翌5日は午後1時ごろ汽車で当地をたってインターラーケン泊り。6日そこから登山電車でユングフラウヨッホへ登り、帰りはグリンデルワルト回りで下ってインターラーケンから約2時間の汽車でルツェルンへ行って泊る。そうして7日ルツェルンからやはり汽車でチューリッヒへ移動してそのままベオグラードへ飛べるようになっていた。登山電車の切符がインターラーケンでもらうことになっていた他は、チューリッヒまでの汽車の切符が全部整っていた。20人だから団体扱いの35パーセント割引で、座席はリザーブしてあるという。切符はミスター・オオタニ・アンド・ヒズ・パーティーとなっていた。“大谷氏旅行団”というところだ。それはすなわち僕の密かな企みがついに実現したことの証(あかし)だった。僕は思わずにっこり、切符を大切にポケットにしまった。


おとぎの国

 そうなることを僕は密かに望んでいたけれども、チームとしては初めから試合をやる気がなかったわけではない。竹腰さんはドルトムントでスイス学生チームと交渉したのだが彼らは帰国すると間もなくリーグが始まるのですぐクラブへ戻らねばならないと断られたのだった。彼らは大学生だけどもサッカーはクラブ・チームに属してやっているらしかった。
 試合はない。旅行の手配は全てできていた。おかげでまことに気楽になった。その日は晩飯まで自由にすると、選手たちはたちまち外出した。竹腰さんは総領事館へ挨拶に行くという。僕も松丸さんと散歩に出かけることにした。

 ホテルは鉄道のジュネーブ駅からモンブラン通りをだらだらと下ってジュネーブ湖(レマン湖)の西端の湖岸に出たところの左角にあった。当地では二流だそうだけれども、我々がそこまでに泊ったうちでは最上級であり、特に場所がよかった。ホテルを出て左に行けば通りはモンブラン橋となる。そこから湖は左の方へ広がり、右に流れるのがローヌ河となる。橋を渡らないでホテルに沿って左に曲がるとモンブラン湖岸通りとなる。盛んにモンブランが出てくるのは、晴れた日にはこのあたりから東方湖のはるか彼方にモンブランの山塊が白く輝いてジュネーブの有名な景観の一つだからだろう。その日は遠くが少しかすんでそれらしきものをわずかにうかがえた程度で残念だった。
 白鳥やカモメが浮かんでいる。遊覧用らしい純白の外輪船が見える。橋を渡って向う岸を歩く。広いバラ園の他に美しい花壇を無数に配した広い散歩道が湖岸をずっと遠くまで続く。そのうえ公園があちこちにある。そこの花も美しいし、小鳥が自由に飛び交っている。空気は清澄で陽は明るくて厳しくはない。ベンチにしばらく腰をおろしていると陶然としてくる。
 ヨーロッパではどこでも花を飾って生活を彩っているが、スイスはことのほか花を好むだろうか。冬は寒い山国だから夏場にどっと咲く花をいっそう愛するのかもしれない。いたるところに花壇を見るほか、橋や湖岸の欄干も電柱も花で飾ってあった。電柱はなかほどに植木鉢を置く台を付けていた。翌朝早く起きてモンブラン湖岸通りを歩いたらアパートの窓辺もほとんど花を飾っていた。さらに行くと公園に出る。また花壇と緑の芝生。小鳥が盛んにさえずる。リスが2匹3匹、芝生を走って木立ちに隠れ、またちょろちょろと現れて遊んでいる。スウェーデンも非常に清潔で美しい国だったが、スイスはおとぎの国の美しさだった。


ニセ札事件

 さてジュネーブも残りあとわずか、各人思い思いの見物や買い物を終えて、そろそろ出発の荷造りをしようかというところだった。思いもよらない事件が起こったのである。竹腰さんから緊急集合がかかった。
「今朝、秘密警察と称する男がやってきて、日本のサッカー・チームの者と覚しき誰かが時計を買ったときに使った100ドル札がニセ札だったというのだ。それですぐ総領事館の人にも加わってもらって話合っているところだが、我々が使った札だとの証拠はない。しかしそうでないという証拠もない。そうして時計屋が100ドルを弁償しろと主張している。ひょっとしたら予定の汽車で出発できないかもしれない」と竹腰さんは緊張の面持ちである。
 前日の午後からこの日の午前にかけてほぼ全員が時計を買っていたのは事実で、その時計屋で多勢が買ったのも確からしい。当時は海外渡航に持参できるドルは極めて制限されていたので、渡航者の大半は多少とも闇ドルを携行したものだった。我々もまた同様で、その闇ドルを入手した際にニセ札がまざっていて気付かないままに誰かが持っていたかもしれない。しかしニセ札はその時計屋で発見されたのではなく、また時計屋が売上金を銀行へ預けに行ったときに窓口で発見されたわけでもなく、いったん窓口を通過したあとで発見されたのだった。だからすでに幾人かの手を経たあとの発見で、我が一行が使ったという証拠は出ていない。それなのに銀行も時計屋もそうだと言い張って、しつこく弁償を求めてきたのだった。

 我々が最も心配したのは、もしも警察がニセ札を問題にして調べはしまいかということだった。そうなると簡単には片付かないし、たとえ善意でも不名誉な表沙汰なりかねない。だから一時は深刻だった。だが幸いに、警察もこのサッカー・チームを調べてもしょうがないとみたのか、東京からきたかもしれないニセ札そのものには全く関心を示す気配ではなさそうなので一応はまずはほっとした。
 とはいっても弁償の話合いがつかないと出発できない。すでに万端手配済みの旅のプランがすべてご破算になるのはやはり同じである。その損害は100ドルどころではない。何よりも僕にとってはここまできてユングフラウに消えられてはがっくりである。やきもきしていたら、一度出て行った竹腰さんがまた戻ってきて話がついたという。当方が使ったとは認めないが、半額の50ドルをチームが出すことで時計屋に承知させたとのこと。警察もつまりは時計屋の損害をいくらか埋めてやってくれとの意向だったらしく、この話合いで了解した。およそ2時間足らずのことながら一時はどうなることかと心配したニセ札事件はこうして大団円となり、一行は予定どおり1時5分発の汽車でインターラーケンへ向かうことになった。


汽車は快く走る

 おかげで少し慌ただしかったが、駅のレストランで昼食をとり、ではプラットホームに出ようかと改札口へ向かったのだが、その改札口が見付からない。あちらかな、とうろうろしているうちに誰かが「分かった。改札口はないんだ」と叫んだ。見ればお客はみんなプラットホームへどんどん流れて行くではないか。改札口はやはりなかったのである。大笑いである。
 わいわい、がやがやとプラットホームに出たらすでに列車は待っていた。また誰かが「ここだ、ここだ。ミスター・オオタニ・アンド・ヒズ・パーティーと書いてあるぞ」という。日本の客車なら○○行と書いてぶら下がっている札にチョークでそう書いてあった。客車の約半分ほどがリザーブしてあった。
 間もなく汽車は北東に向かって走り出した。汽車といったが実はほとんど電化されていて、三等といえどもきれいだ。左手のジュラ山脈のスソが右へ流れる傾斜地はブドウ畑らしい。右手にレマン湖が見え隠れして、いかにも景色に似合いの農家が林の間に点在する。丘の上に古城も見える。これもおとぎの国の風景だった。案外カーブが多いのに相当なスピードで突っ走る。80キロは出ていただろう。出発間際の事件も忘れてみんなはのんびりと楽しんでいた。切符は車中で車掌が改めにきた。


written by 大谷四郎
(サッカーマガジン 1975年11月25日号)

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