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本番での一勝だけだったが、 次への大きなステップとなった

 JFA(日本サッカー協会)から被災地域へのメッセージとも言うべき「東北地方太平洋沖地震支援チャリティーマッチ、がんばろうニッポン!」が3月29日、大阪・長居スタジアムで行われた。前売り入場券即日完売のあとの追加分を合わせて4万613人の有料入場者と、多くのテレビ観戦者(日本テレビ系、関東地区平均22.5%、関西地区17.6%)を前に、日本代表(サムライ・ブルー)がJリーグ選抜(チカラをひとつに)と戦った。スコアは2-1で日本代表の勝利、試合前にはスタジアム周辺で募金や記念グッズなどの販売が行われ、被災地への義捐金を集めた。
 スタンドの記者席で試合を眺めながら、こうしたチャリティー試合をJFAやJリーグが即座に実施できるようになったことをひそかに喜びながら、苦難にある人たちへの心が、このあともずっと続くこと、さらには健康な社会の上に成り立っているプロスポーツ人の中に永久的なものになってくれることを願っていた。
 日本のサッカーにとっても、今度の大震災の影響は決して小さくはないはず。私たちは、これまでの長い歩みの中で、日本サッカーの充実が絶えず自然災害や戦災などによって脅かされ、進化の歩みを中断させられたことを知っている。
 シーズン最中の欧州8カ国からはせ参じた12人の日本代表のそれぞれの動きが、公式戦を中断されたJリーグ勢よりも良かったことを見れば、日本サッカー界もハンディを背負っていることは明らかだろう。
 連載のテーマ、「日本とサッカー、90年」に戻ろう。今から75年前の1936年8月、ドイツの首都ベルリンで行われたオリンピック大会フットボール競技の1回戦で、初出場の日本が優勝候補のスウェーデンを倒して(ノックアウトシステム)ベスト8に進み、中2日の8月7日にイタリア代表と対戦して0-8で大敗したことを前号までに記した。
 この大会の記録映画が第1部「民族の祭典」(主として個人競技)、第2部「美の祭典」(団体競技、選手村風景など)に分かれて私の旧制中学頃に輸入され上映された。その「美の祭典」の中でのサッカー競技の数分間は、当時の私には貴重な教材でもあった。前号で書いたCFの美しいドリブルのフォームとともに、印象に残ったのはイタリアの右ウイングのフロッシがドリブルでボールがタッチライン上をずっと転がってゆくのを見せるシーンだった。このフロッシのドリブルが効果的だったが、日本側が守り一辺倒でなく、ゴールを奪いに行こう、攻めにゆこう――という姿勢を続け、その際にボールを奪われることで、ますます点差が開いたのだった。

 日本代表の大会での試合は終わった。8月8日、10日、11日は観戦、12日にドイツ南部選抜チームと試合をし(2-6)、13日、14日と観光、15日にはベルリンに戻って決勝戦を観戦した。
 代表はさらに、19日にスイスのチューリヒでグラスホッパーと対戦(1-16)した後、ロンドン、パリ、を周り、8月末にマルセイユから日本郵船・鹿島丸に乗船、帰国した。
 竹腰重丸コーチは、パリでチームと別れて、イングランドのプロリーグやワルシャワでのポーランド対ドイツなどを観戦し、また社会人であった竹内悌三(大学生のように秋のリーグ出場はない)もヨーロッパのサッカーを見て回り、チェコやイタリア、イングランドなどへ足を伸ばして意欲的な観戦記をJFA機関誌に残している。
 代表チームの実質的な責任者であった竹腰コーチは、この大会の2試合のリポートの中で、@ベルリンへ来てから3FB制を採ったことと、FWの進退を多くして最前線とFB線との距離を小さくして厚みのある隊形を保ったことで、個人的な力の差からくる守備の決定的な破綻を防ぐことができたこと、A少なくとも対スウェーデン戦での総活動量の多かったこと、を挙げている。
 この竹腰コーチの「オリンピックの成果」と題するリポートは、私には今の時代に読んでもとても興味あるもの。若いコーチの皆さんにも薦めたい。
 その中で日本選手についてこういう記述もある。「最近ドイツで出版されたオリンピック・サッカーの批判書に、日本の攻撃はよくまとまっていて美しいこと、個人的にはGK佐野理平、FW加茂弟(正五)、右近徳太郎は大会で選んだ30数人のスタープレーヤーに入るとしている。
 私は平常の力から見て、右近、川本泰三、加茂兄弟と佐野は大会の水準以上と考えている。
 佐野以外がFWであってHBとFBにこうした選手がいないのは、ここしばらくの守備で個人的に見て間合いの取り方、進退のかけ引きが荒れていることが原因のように思う。FW以外の者が、ボール扱いが拙いことは前から意識されていたが、前記の4人のFWにしてもペルーのRI(ライトインサイド)やイタリアの右ウイングに傑出した選手に比べれば、なお隔たりがある」――と。
 7戦6敗。本大会での1勝だけであったが、日本サッカーの総力を挙げての大事業。ベルリン大会参加は次につなぐ大きな経験となった。


(サッカーマガジン 2011年4月19日号)

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