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停滞から、新たな飛躍へ

 ただし、これほどのトップコーチ、トップ選手の流出は、ユーゴのサッカーそのものの発展にはどうなのか。80年にサッカー人口(登録プレーヤー)は、19万4,000人に増え、84年には23万人と増加の一途だが、トップチームの成績は次第に停滞しはじめた。

 28歳といえばサッカー選手の頂点の時期、体力的にはぼつぼつ峠だが、経験がテクニックの効果を上げる。試合の読みの正確さを増し、大舞台での冷静と落ち着きも期待できる。いわば完熟期にある一流を外国へ出してしまえば、それぞれのクラブはチームの完成への歩みは鈍る。同時にまた、サッカーの質が世界的に変わりはじめた。74年のオランダの中盤での「囲い込み」以来、トップの試合のミッドフィールドのボールの奪い合いは激しくなり、タフな動き、スピーディーなランニングと、素早い相手への接近、それに対応するために、ボールをキープする側も絶えず動くことが要求されるようになった。
 ユーゴ的な、ユーゴ・スラブ的なスローを基調とし、個人のキープ力を顕示するスタイルは激しさにタジタジとなった。

 82年W杯、84年欧州選手権での不振は、外国人の選手を流出させた国のチーム編成のむずかしさと、自分たちのスタイルを持ちながら、サッカーの新しい流れに対応しなければならない問題が表われていた。
 こんどの90年イタリアW杯予選で、ユーゴはすでに欧州第5組での代表権を獲得した。同じ組のフランス、スコットランドとも1勝1分という安定した試合ぶりだったが、今回は国外組がチームの半分を占めていた。
 パリ・サンジェルマンにいる33歳の技巧派ストライカー、スシッチもその1人。79年に代表チームで3試合ハットトリックを決めて有名になり、82年にパリに移ってチームの優勝に貢献した。33歳の彼がどれだけ活躍するか期待したいところだが、こういったベテランを助ける若手の成績も、ユーゴの明るい話題。
 もともと、若いタレントが相次いで育つことで知られていたユーゴだが、80年はじめから、当時の代表監督ミリアニッチらの努力でノビサド市にスポーツセンターを造り、広い敷地にサッカー場と体育館を備え、用具も整えて若いプレーヤーの育成の場所とした。また、ノビサド大学の医学部と協力し、ボイボイデナ地域のトップチームのサポートも得て、選手の健康管理や体力増強の面でも積極策を打ち出してきた。

 かつては想像力と創造性とテクニックを第一としたユーゴのサッカーに、体力、スピードを兼ねようとの動きが加わったことが、こうしたトレーニング・センターの開設をうながしたのだった。
 1987年、ワールドユース大会(チリ)で、ユーゴは準々決勝で3連覇を狙うブラジルを2−1で倒し、準決勝を2−1(東ドイツ)で乗り切り、西ドイツとの決勝は1−1の末、PK戦(5−4)でものにして初優勝を飾った。彼らの攻撃サッカーは、ユーゴの伝統を示し、また、粘っこく戦って勝つというタフさも示した。こうしたユーゴの若い力が世界を回り、タイトルを取ったことは、この国のサッカーに自信を取り戻すことになるだろう。また、選手たちを流出する一方だったユーゴだが、逆に外国選手を迎え入れるクラブも現れた。これによって国内リーグも、さらに活気づくはずだ。
 日経新聞の夕刊で、ベッケンバウアー(西ドイツ監督)が、ユーゴはイタリアの本大会でも強いだろうと言っていたが、それは、彼が“ダニューブ・サッカー”の新しい息吹きを感じたからに違いない。


(サッカーダイジェスト 1989年12月号「蹴球その国・人・歩」)

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