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日本中がペレに酔った(上)

44年前の5月26日 歴史に残る2ゴール

 4月号と5月号は昭和初期に日本代表として初のハットトリックを記録し、仲間たちから“天才”といわれていた若林竹雄さんを紹介しました。その夭折ゆえに多くの読者には馴染み薄い名であったと思いますが、当時のサッカーの激しさや健康管理の面を含めて一度は書き残しておきたい先輩でした。外交官として大戦直後に活躍した白洲次郎さん(故人)は旧制神戸一中(現・神戸高校)でこの若林さんの4年先輩にあたります。私にとっても大先輩にあたる白洲さんと若林さんとのサッカー問答も神戸一中のサッカー史のなかで伝わっていますが、それらはまた別の機会に譲りました。
 今回は、誰もがその名を知っているブラジルの生んだサッカーの王様ペレについてのお話しです。
 エジソン・アランテス・ド・ナシメントという本名は知らなくても略称ペレは世界中で知られている。1940年10月23日生まれ、現在75歳の彼は16歳でプロとなり、17歳でブラジル代表として1958年のワールドカップに初登場、ブラジルにとって初のタイトル獲得に働いた。62、66、70年と合計4度のワールドカップに出場し、3度の優勝を経験した。ワールドカップの栄誉の上にプロフェショナル選手としての21年のキャリアで1363試合に出場し、1281ゴールという驚くべき記録を残している。もちろんサントスFCでの優勝、南米選手権の優勝などその業績には多くのページが必要となるが、私たち日本サッカーにとって幸いなことは、1972年5月25日にペレとサントスFCが東京国立競技場で日本代表を相手に見事なプレーを見せ、ペレ自身2ゴールを決めた。それも自らが生涯最高のゴールのひとつという最高のシーンを演出したことだった。
 ワールドカップの活躍でペレは1970年のはじめには世界中から注目されていた。ヨーロッパへ遠征し、ソ連で試合をしたときにはロシア人の老婦人がペレを見て涙を流したというエピソードもあった。
 日本のサッカーは1964年の東京オリンピックでの対アルゼンチン勝利を足場に、68年メキシコオリンピックで銅メダルを獲得し、釜本邦茂がこの大会の得点王(7ゴール)となったことで、人気は急上昇していた。
 “東京”以降の少年層への浸透もあり、サッカー人も増えていたときに、世界で最も人気の選手が来日したのだった。来日のためにサッカーの専門誌は、それぞれペレ来日記念特集を発刊し、スポーツ紙もペレとサントスの紹介にスペースを使った。そうしたメディアの予告記事のおかげで、前日の練習のときにも入場者を制限したほど当時の国立は満員となった。
 キックオフの前にペレとサントスが場内を一周して観客にあいさつするとき、スタンドから興奮したファンが飛び降りてペレを取り囲むという異常現象もあった。
 試合はまことに素晴らしかった。日本側はペレのマンマークに山口芳忠をあてた。東京、メキシコの両オリンピックの経験者で、相手のキープレーヤーをマークする役割が多かった山口が、ペレにどのような対応をみせるかを私たちは楽しみにしていた。
 その山口の密着マークを受けつつペレはフィールドの中央、やや自陣寄りにいて前半は、あまり大きな動きを見せなかった。
 一度だけ縦にドリブルした。そのときは白いユニホームの彼がひとつの線になって見えるほど早かったことは記憶している。
 前半にサントスが1ゴールして後半に入った。互いに攻め合う形が激しくなる中でペレは相変わらずゆったりとプレーし、寄せられるボールを仲間に返していた。
 双眼鏡で彼の表情を追っていた私には、そうした両チームの動きとともにペレの顔に高揚感が表れるのを見た。
 そしてペレの1点目、チームの2点目が生まれた。後方からのパスをペレは胸で止め、浮かせたボールを前に落とし、反転してペナルティエリアに向かった。左手で山口の接近を抑えるようにして右足でボレーシュートした。
 まさに一瞬のことだった。この場面は各社がスチール写真で捉えていたが、ボレーシュートのとき、やや遠い落下点のボールに右脚をいっぱいに伸ばしたインステップでのインパクトのところを見事に写しだしている。
 正面スタンドの記者席から見て左手のゴールは照明が暗く、それを背後から見ている形だから、このペレの1点目右足シュートをしっかり眼に焼き付けることはできなかったが、ゴール裏のカメラマンによって私たちは知ることができた。
 円熟味は増した、ただし若いころに比べてスピードはどうか、などという声もあったが、30歳を越えて瞬間プレーの早さに頭を下げることになった彼の1点目だった。
 やっぱりスゴイと思った1点目の次に、さらに素晴らしいゴールを彼が演じてくれた。ペレにとっても歴史的なゴールだった。


(月刊グラン2016年7月号 No.268)

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