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サッカー発祥の地・神戸の150年(前編)

 神戸市サッカー協会のホームページに、神戸サッカーの歴史というコーナーがあり、年表の1行目に、1871(明治4)年、英字新聞『Hiogo News』に「フットボールの試合が本日午後、居留地において開催される」との記事が見られる(KOBEの本棚:神戸市立中央図書館参照)と記されている。1873年に東京の海軍兵学校で英国海軍少佐が日本人の生徒たちにサッカーが教えたとされる2年前、神戸でサッカーの試合が行われていたという記述から来年で150年となる。2号にわたり、サッカー発祥の地・神戸の歴史を振り返ってみたい。
 1868年1月1日に神戸港が開港。当時、香港や上海に居住していた外国人が避暑地として六甲山麓などを開拓、ハイキングやサイクリングをはじめ、ハイカラなスポーツ文化を神戸に持ち込んだ。開港とともにJR三ノ宮駅の南、神戸市役所に近い旧居留地の東側に外国人居留遊園(後に東遊園地と改称。毎年1月17日の阪神大震災発生日「1.17」希望の灯りで知られる)が建設され、外国人専用の芝生グラウンドやスポーツマンクラブでサッカーやラグビー、野球、ボウリングなどを親しんだ。私が通った神戸一中(現在の県立神戸高校)は、1938年に摩耶山麓に移転するまで三宮近くの外国人居住地にあったことから、早くから外国人とのスポーツ交流が盛んだった。少年時代から東遊園地のグラウンドに通い、外国人がスポーツを楽しむ姿を見て、このグラウンドで練習をした時には平らに整備された芝生の上でサッカーがうまくなったと感じた。
 戦前の神戸を代表するサッカーの試合は、御影師範(後に神戸大学へ統合)と神戸一中による、今で言えば「神戸ダービーマッチ」だ。御影師範は全国高校選手権の前身・日本フットボール優勝大会、全国中等学校蹴球選手権で第1回から7回までの7年連続を含む11度の優勝、対する神戸一中は優勝7度。15回大会までは、10回大会の崇実(朝鮮代表)を除くと、この2校で優勝を占めてきた。お互いのプライドがぶつかる試合だけに大いに盛り上がった。この2校を中心に、神戸二中(現在の県立兵庫高校)、神戸三中(現在の県立長田高校)、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎が参画した私立の灘中学とサッカーが盛んな旧制中学を中心に、戦前の神戸は「サッカーの街」にふさわしかった。
 しかし、戦争を経て、近隣の大阪や京都に比べて大学が少なく、重工業企業が多かった神戸は、実業団チームが台頭した中で大きく後れを取った。戦後の関西では大阪を拠点とした田辺製薬が大学の名選手を集め、実業団選手権6連覇など強豪の名をほしいままにした。神戸が再び輝くのは、1965年に発足した日本サッカーリーグで、兵庫県の尼崎市を拠点としたヤンマーディーゼルがネルソン吉村、釜本邦茂らを擁し、競輪場の跡地に1970年に完成した国内初のナイター設備を持つ神戸中央球技場(現在のノエビアスタジアム神戸)で活躍するのを待たなければいけなかった。

(月刊グラン2020年11月号 No.320)

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