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1964年東京オリンピック「44万人が生でサッカーの国際試合を観た」

 1964年10月―――日本で開催された東京五輪。当時はまだサッカーが広まっていなかった我が国だったが、現在のJリーグ人気に匹敵する44万人という観衆を集めることに成功する。14か国が集まった国際大会は、その後のサッカーの普及に大きく貢献した。

 「東京五輪で新聞が売れるかどうか―――」それは開幕までスポーツ紙関係者が最も関心を寄せていたことである。開会式当日、人々はテレビの前に集まり、街頭から人気がなくなった。それから2週間、94か国5500選手が参加したこの大会に日本全国は熱狂し、その結果、スポーツ紙も予想外の売れ行きとなった。

 この年の秋のプロ野球日本シリーズは、阪神タイガースと南海ホークスの対戦(関西地区同士の闘い)となったため、かやの外となった東京では新聞の売れゆきが減少すると見られていたので、まさにオリンピック様さまであった。

 この大会を契機として日本はテレビ時代に踏み込むが、テレビを通じて大衆が多くのスポーツに親しんだだけでなく、200万人もの人々が生で国際競技を見ることができた。

 16か国参加のサッカーは、まず4か国ずつの4組に分かれて1次リーグを行なった。そのうち8チームが準々決勝へ進み、以後、準決勝、3位決定、決勝へと勝ち上がるトーナメント方式で行なわれ、総試合数は32となった。入場券の発表枚数は63万8195枚、売れたのは61万6442枚と、実に発売枚数の96.59%であった。

 サッカーの先進地域で開催されたW杯の例を見ても驚異的な販売率であった。入場券の売れ行きについて大会前の報道では、開会式や閉会式は別格としても、陸上競技や水泳などは良いが、サッカーは売れないと言われていた。だが東京の国立競技場、駒沢競技場、秩父宮ラグビー場、横浜の三ツ沢競技場、埼玉県の大宮競技場の5会場は、試合当日ほとんど満員だった。

 もっとも、イタリアのオリンピック代表チームの中に、プロ選手が入っていることが問題となって不参加となったり、新興国スポーツ大会(GANEFO)という非公認の国際大会に出場した北朝鮮の選手の、オリンピック参加資格が問題となり、選手全員が参加を取り止めて帰国してしまったりで、結局、大会は14か国で競われ、総試合数も26に減少した。これら取り消しとなった6試合の前売入場券はすべて払い戻ししたため、実際の販売実数は44万1161枚にとどまった。

 大会の入場券販売枚数を競技別に見ると、一番多いのが陸上競技の51万9000余枚だから、もし、2か国の不参加がなく、予定どおり試合が行なわれていれば、サッカーが最高の入場者数を記録したハズである。

 日本サッカー界としては、非常に惜しい記録を一つ失なったことになる。ちなみに売上げ総額は2億5935万円、払戻し後の売上実績は2億1143万7100円。入場料の単価は決勝の特別席は3000円、2000円と高いが、普通席は1000円、500円、300円、200円、100円と小・中学生向けに値段も安かった。既に中学校では体育科目にサッカーが取り入れられていたので、こうした手軽な値段が吸引力となった。おかげで「サッカーはオリンピックのドル箱」という大会の伝統は日本でも守られた。


(ジェイレブ OCT.1993)

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