賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >1968年メキシコ・オリンピック「B組2位でベスト8進出」

1968年メキシコ・オリンピック「B組2位でベスト8進出」

 1968年10月のメキシコ五輪は日本サッカーにとっては4年がかりの大きな目標だった。アフリカ(ナイジェリア)、南米(ブラジル)、欧州(スペイン、フランス)の強豪を押さえ、開催国を破ってのアジア初の銅メダルはオリンピック・サッカーでの"異変"として世界を驚かせた。

 16チーム参加のオリンピックの1次リーグ、そのB組の第1戦で日本はナイジェリアを3-1で破った。4年前の東京五輪では、アルゼンチンに勝ちながら、ザイールに2-3で負けたが、今度は同じアフリカの黒人特有のバネのある個人技を押さえての勝利だった。相手チームの研究を積んでの対策の成功だが、同時に4年間の日本代表チームの進歩の証しでもあった。

 次の第2戦はブラジルが相手。開始後9分にブラジルの左CKを日本のGK横山がボールを見失って(ボールが太陽と重なった)、長身のCFフレッティにヘディングされて0-1となる。残りの81分はこの1点を追う戦いとなり、八重樫が負傷で欠場したため、いい形が作れない。中盤に下げていた釜本を後半にはトップに戻した。彼の威力で相手のDFラインが後退し、日本の攻勢が続くと、ブラジルは露骨な時間稼ぎを始める。3万の観衆はフェアな日本を声援し、ブラジルの反則に口笛を吹く。日本は終了8分前に、松本に代えて渡辺を投入した。左サイドの杉山からのクロスがファーポストへ飛び、それまで長身のCFBとの競り合いに苦労していた釜本が、相手DF3人にマークされながら、ヘディングでピタリとゴール正面へ落とすと、走りこんだ渡辺が右足でダイレクトシュートした。長沼監督はロスタイムを計算して、あと13分のときに渡辺を起用したつもりだったが、レフェリーは、たびたびのブラジル選手の"時間稼ぎ"をロスタイムに入れていなかったらしい。いわばぎりぎりのタイミングでの交代策が成功した。

 B組の各2試合を終わってスペインが2勝、日本は1勝1分、ブラジルが1分1敗、ナイジェリア2敗となっていた。日本は第3戦に勝てばもちろん、引き分けでもベスト8に残れるが、準々決勝の対戦相手を予想すると、B組1位になるとA組2位(と予想される)メキシコ、B組2位ならフランスに当たるだろう。とすると開催国で勢いに乗りはじめていて、しかもスタンドの観衆の大声援を受けるメキシコと戦うのは避けたい。といって引き分けを狙ってプレーが消極的になって負けてしまえば、同じ時刻に行なわれるブラジル-ナイジェリア戦の結果によっては日本がB組3位になる可能性もある。それを考えて、まずスペインには勝つことを目標とした。

 10月18日、巨大なアステカ競技場での試合は、スペインがMFの主軸アセンシを休ませたので、長沼監督は、試合前にまず失点0でいくことを強調した。消極的でなくDFの密着マークの激しい守備とスイーパー鎌田の冷静さが必要だった。前半0-0、後半30分にブラジルが1-3でリードされているという情報が入ったところで、宮元輝紀を湯口に代え、その湯口に「引き分けに持ちこむことを全員に伝えよ」と指示した。日本のシュートが惜しくもポストやバーに当たるのを日本のベンチは複雑な思いで見ていた。だが結局試合は0-0、日本チームの計画通りに運んだ。


(ジェイレブ APR.1994)

↑ このページの先頭に戻る