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夢のような日々 「祭り」が終わって

 74年9月号から書き始めた「ワールドカップの旅から」は今回で終わらせてもらいます。ワールドカップを見て記事を書く、という全く夢のような幸せの日々を、皆さんと語り合うために始めたこの連載は、書かせてもらうことが、また楽しみの日々でした。今度のドイツ行きは、往路は大阪─羽田─アンカレッジ─フランクフルトの北回り、帰路はフランクフルト─ニューヨーク─モントリオール─バンクーバー─アンカレッジ─羽田を取りました。

 ルフトハンザ492便のボーイング720機は一路西へ飛んでいた。通路を走っていたアイルランドの坊やもいつの間にか静かになった。私の隣のハンブルク生まれというドイツ人の娘さんも健康な寝息を立てていた。1974年7月10日、フランクフルトを午前10時に飛び立った機は、既に英国の西をかすめ去り、大西洋上にあった。

 「とうとう済んだ。ワールドカップも」

 6月7日にフランクフルトに着いてから、アッという間に過ぎた1カ月を、私は改めて振り返るのだった。

 「それにしても、この2,3日は大変だった。タフが売り物のお前さんも、少々疲れたようだね」と自分の胸に問いかける。若い頃からタフで通ってきた私も、さすがに7日の決勝から、この飛行機に乗り込むまでは、いささか、オーバーワークとなっていた。



 本当は3-1?

 7月7日の夜、ミュンヘンで私のホテル「カロリーネンホフ」ではマダムがシャンペンを抜いて乾杯した。主人や同宿のドイツ人記者達が浮かれている最中に、例によって、私は電話で日本への送稿をしなければならなかった。宿の主ジンガー氏は「西ドイツは勝った。3-1で」と、歌うように、がなっていた。

 氏によると、後半に西ドイツが攻め込んだとき(確かヘルツェンバインだったかが、逆襲で、左からドリブルで持ち込み、ペナルティ・エリア内で、オランダとぶつかって倒れた)このオランダの反則をPKに取るべきで、それをレフェリーが取っておれば3-1だというのである。マダムは「あのシーンの時、レフェリーが何故PKを取らないのか、主人は怒って、すんでの所でテレビを壊しそうになったんです」と言っていた。レフェリーも全く、楽ではない。



 チップ&タップもダンピング

 良いゲームを見た興奮の余韻で、うつらうつらしたと思うと、7月8日、北のヨーロッパ特有の早くから白々とした朝が来た。寝室でマガジン用の原稿を書き上げ、朝食を済ませると築出君が車で取りに来てくれた。この日にミュンヘンを発って帰国するという。若い彼もいささか、げっそりした感じになっていた。

 一人でぷらりと出たミュンヘンの市内は、大きな仕事を成し遂げた後の虚脱感が漂っていた。ベンタホテルのプレスセンターはタイプライターの音も消え、電話係は手持ちぶさただった。前日までは、ここはもう一つの戦場だった。「ムッシュー××、パリが掛かりました」「○○さん、モスクワが出ました」──世界各地への電話申込を受け、その接続を伝えるアナウンスもなかった。

 百貨店などでは、チップ&タップの人形や、いす用座布団など記念品の値下げが始まっていた。12マルクだった座布団は5マルクになった。


(サッカーマガジン 1975年12月25日号)

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