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メキシコ史に深い影響を与えたフランス、そのプラティニらの敗退にしばしぼう然

 レフェリー、ラインズメンをはさんで、左にルムメニゲがいた。右にプラティニがいた。そして、それぞれの左、右に西ドイツの選手たち、フランスの選手たちが並んでいる。

 86年6月25日、12時、メキシコ・シティのアステカ競技場のプレス・ルーム。片側にコンピューターの並ぶ狭いスペースで、わたしたちは800キロ離れたグアダラハラ、ハリスコ競技場からの映像をテレビで見ていた。
「とうとう準決勝まできた・・・・・・」

 5月31日から1ヵ月に及ぶ長い大会と思っていたのが、1次リーグが終わり、決勝ラウンドにはいって、16チームのKOシステムになると、あっという間に日が過ぎてしまった。

*   *   *

 3日前の6月22日、わたしはアステカ競技場のイングランド−アルゼンチン戦でマラドーナのすばらしい5人抜きと、“奇妙なヘディング”シュートを見た。同じ日、プレス・センターのテレビで、ベルギーがスペインにPK戦で勝って準決勝へ進むのに驚かされた。

 その前日のブラジル−フランス戦(グアダラハラ)、西ドイツ−メキシコ戦(モンテレイ)もそうだったから、準々決勝4試合のうち、3試合までが、延長、PK戦という大激戦。見るものには、まことに面白く、プレーヤーには、まことに過酷だったろう。

 過去のワールドチャンピオンとなった6カ国をふくむ24カ国が集まったこの大会は、こうしてベスト4にしぼられた。4チームのうちアルゼンチンは78年の優勝、西ドイツは54年、74年の優勝のほか2位2回、3位1回、フランスは58年の3位に84年欧州チャンピオンの肩書きもある。ただひとつベルギーがワールドカップの勲章もなく、大陸のタイトルもない。

 勝負の“格”からいけば、グアダラハラの方がいいから、そちらへ飛びたいのだが、なにしろ、マラドーナという“気になる”プレーヤーがいる。そこで、メキシコ・シティに居すわって、フランス−西ドイツ戦はテレビでということになった。


 フランスとメキシコ

 グアダラハラといえば、準々決勝のブラジル−フランス戦を取材し、ホテル・フィエスタ・アメリカーナの記者用のルームで、西ドイツ−メキシコ戦のテレビを見たあと、通訳のお嬢さんに「メキシコはアンラッキーだったね」となぐさめると「選手たちはプレッシャーにつぶされたんだと思う」という。

 その彼女に、つぎはフランスと西ドイツ、どちらが勝つと思う――ときいたら「フランスだと思う」と返ってきた。

 1521年にスペイン人、エルナン・コルテスの軍隊によってアステカ帝国が崩壊してから300年間、スペインの植民地、ヌエバ・エスパーニャ副主領の時代が続いたから、この国にはスペインの影響が非常に大きいのは当然としても、フランスも縁がないわけではない。

 1860年代に、レフォルマ(改革)と呼ばれる近代化推進をはかったファレス大統領に対して、フランスの皇帝ナポレオン3世が、保守派と組んで軍隊を送って武力干渉し、オーストリアのマクシミリアン大公を送り、メキシコ皇帝につかせ、皇帝の権力をバックアップするため、フランス軍隊を駐留させた。マクシミリアン皇帝は3年後に反乱軍に処刑され、第2帝政は短命に終わるのだが、当時の上層階級のなかには、スペインから独立したあと、フランスへの憧れが強かったのだともいう。

 1967年製作のハリウッドの西部劇「ダンディー少佐」は、南北戦争の時期に西の辺境の守備隊長、チャールトン・ヘストン演ずるダンディー少佐が、暴動を起こすアパッチの1群を討伐するのが主たるストーリーで、そのなかで、メキシコへ逃げ込むキャリバ酋長らを追ってリオ・グランデ河をわたり、国境をこえるためにメキシコ駐留のフランス軍と戦うところがあったが、この時代の背景をからませたものらしい。

 日本の大メーカー・日立のメキシコ出張所長の戸田真さんの話ではモンテレイの南35キロのビジャ・デ・サンチアゴには、顔付きはまったくインデオで、金髪、青い目の人たちが多い。それも1860年代にフランス軍が駐とんしたために生まれた混血だという。

 そういえば、グアダラハラに美人が多いのもフランス系が多いからと聞いた。


 さえないプラティニ

 そんなフランスとメキシコの関係を思い出しながら、なんとなく、アップにうつるプラティニの表情が冴えないのが気になる。ブラジルとの大激闘の疲れはとれたのだろうか。そしてまた、ロシュトーの負傷欠場がひびくのかどうか――。

 西ドイツのキックオフで始まり、ドイツ側のパスミスからフランスが攻めようとし、ストピラがドリブルしたところで、トリッピングで倒される。しばらくは、互いに、ボールの奪い合いに専心。6分までに、マテウスが倒され、ブリーゲルが倒され、ルムメニゲも倒される。ミッドフィールドでルムニゲをはさんだうちの1人はプラティニ。ルムメニゲが倒れるときに、逆にプラティニが踏まれたのか、倒れたルムメニゲが、プラティニに手を出し、声をかける様子がうつる。

「フランスのファウルに意気込みが感じられる。が、ファウルを多発するのは、相手にFKを与えるからソンではないか」と思う。フランスのように流動的なパスを組み立てられない西ドイツは、FKやCKのセットプレーが多ければ、それだけ攻撃のチャンスをつくれるわけなのだが・・・・・・。

 一方、西ドイツは、ひとつひとつの「ボールをめぐる戦い」で、まず、せり勝っている。5分のブリーゲルの突進、ゴツゴツと2人にぶつかりながら自分のものにし、ゴールラインからクロスを出す。外へ出てしまったが、相手のDFラインを突破した第1号だ。

 9分に右サイドでマガトとルムメニゲがパスをつないでルムメニゲがペナルティーエリア内へ突進するのをフランス側が反則。ペナルティーエリア、すぐ外でFKとなった。

 マガトとブレーメがボールの近くに、そして、ブレーメのそばにもう1人。

 ボールのすぐ近くのマガトは左利きで、ゴール前へ浮かせることができる。ブレーメはシュートがきくし、どちらにするか、と思ったら、マガトがボールに軽くふれ、それをブレーメが左足で強く叩いた。カベの左外側を通り、ゴール右へとんだボールをGKパツはセービングでリーチのなかへいれたが、ボールがドライブしたのか、はやかったのか――、体の下をくぐったボールはゴールへ。

 積極守備の西ドイツ

 0−1とリードされたフランスの攻めが激しくなる。ジレス、プラティニのパスがとおりはじめ、ティガナのドリブルが冴えてくる。そのスピーディーな攻めを防いだあとの西ドイツのカウンターもまた早い。プラティニのマーク役のロルフが、攻めになるとプラティニから離れて果敢に前進する。

 それは1974年の決勝で、オランダのクライフをマークしたフォクツが、当時の世界一のFWを置き去りにして攻撃に参加したのを思い出す。その時の主将だったベッケンバウアーの指示なのか、強敵と対すれば、士気のあがるゲルマンの特性なのか。

 それにしても、危いとみると、ペナルティーエリアに9人が後退してくる厚い西ドイツの守りは、人数が多いだけでなく、1人ひとりのマークが確実で、局所では体を張り、危険なパスに対しても、自分のリーチいっぱいに足をのばすところは、すばらしい。


 ああ、フランシア、ああプラティニ

 フランスのチャンスのたびに、スタジアムに大歓声があがるが、前半を無失点でしのいだ西ドイツの守りは、後半にはいっても、崩れそうで崩れない。

 リードされてからのフランスはプラティニが前に残っているらしく、テレビの画面でも中盤の組み立てのところにでてこない。DFのポッシが目立つが、やはりプラティニが関与しないミッドフィールドは、フランスらしい楽しさがない。

 82年のスペイン・ワールドカップ準決勝で、技術的に上なハズの彼らは西ドイツに延長、PK戦で敗退した苦い経験を持つが、それが、どこか影響しているのか、そしてまた「1点」が心にのしかかって、焦りを招いているため、パスの呼吸があわないのか、彼らの焦りはふえるオフサイドにもあらわれている。

 時間の経過とともに西ドイツのタフネスが目立ち、残り2分の右と左のCK、さらに、バチストンの左ポストぎわでのシュート、ボッシの中央のフリーシュートもものにならず、逆に全員が前に出た逆をつかれ、フェラーに2点目を許してしまった。

 タイムアップの笛が鳴ったときのフランス選手たちの呆然たる表情。こんどこそ、ドイツに勝てると信じていたのが、またしても敗れてしまった彼ら、プラティニやジレスやティガナ・・・・・・。西ドイツのサッカーも決して嫌いじゃないが、そのがんばりには敬意をもっているが、1度は決勝に出てほしかったフランスの敗戦にわたしは、しばらく、この競技場で行われる試合のことを忘れていた。

旅の日程

▽6月25日 メキシコ・シティ

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