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苦境を乗り越えた開催国メキシコの成功と西ドイツの頑張りをはねかえしたアルゼンチン

 スタジアム全部が、歌っていた。壮重なメキシコ国家が11万4580人の声にのって青い空へあがっていくようだった。アルゼンチンのセレステの旗と西ドイツの黒赤黄の旗のなかで、赤白緑のメキシコ国旗がゆれていた。

 みんな晴れやかな顔だった。

 その晴れやかさにつられて、わたしも国家をハミングした。

 1986年6月29日、11時53分、アステカ・スタジアム。ワールドカップ・メキシコ大会の決勝の前のセレモニーがはじまっていた。

 メーンスタンドの前に、アルゼンチンの選手と、西ドイツの選手がレフェリーをはさんで整列し、左側に並ぶアルゼンチンのキャプテン、マラドーナは、両足をそろえ(日本流の“気を付け”に近い)、きちんとした姿勢。西ドイツのルムメニゲ主将は両足をひらいて。手をうしろに組み、これも威儀を正して、ロイヤル・ボックス席と、開催国の国家に敬意を表していた。

 わたしたちの記者席からは見えないが、ルムメニゲには、メキシコのデラマドリ大統領と並んで立つ、西ドイツのコール首相が目にはいっているかも知れない。

 5月31日にはじまった大会は、順調に進んで、最終日となった。コロンビアが大会開催を返上したため、その代役を引きうけ、3年間の短い日程の間に準備を整えた関係者たちは、ここまでくれば・・・・・・とホッとしているに違いない。経済の悪化の上に、昨年は大地震というパンチもあった。それを乗り越えての成功だから・・・・・・。


 ビラルドとベッケンバウアー 2人の監督

 成功といえば――と、わたしは2人の監督に思いをはせる。アルゼンチンのカルロス・サルバドール・ビラルドと、西ドイツのフランツ・ベッケンバウアーを――。

 ベッケンバウアーの偉大な選手キャリアについては世界中のファンが知っている。

 84年のヨーロッパ選手権の不成績で、デアバル監督が辞任したあと、西ドイツ協会の要請で代表チームの監督となった。41歳の彼は、まだ、どこのクラブの監督をつとめたこともなく、異例のことだった。フォクツという、74年の仲間と、優秀なフィジカル・トレーナーを得て、代表チームを肉体的、精神的に強い「ゲルマンのチーム」に仕立てあげ、長い負傷のあと、体調不十分なルムメニゲをあえて起用して、とうとう晴れの舞台にチームをもってきたのは、彼についてまわった幸運の女神のせいばかりではないだろう。
 
 カルロス・ビラルドは、彼がサンロレンソというチームをつれて、キリンカップで来日したときに顔を合わせたことがある。

 選手時代、エスツディアンテスのミッドフィルダーで、1968年から3年連続してリベルタドーレス杯(南米クラブ選手権)に優勝。68年にはワールド・クラブ・カップ(いまのトヨタカップ)でマンチェスター・ユナイテッド(ジョージ・ベストや、ボビー・チャールトン、デニス・ローらのいた)に勝っている。

 71年からコーチ生活にはいり、コロンビアのデポルティボ・カリの監督になって同チームを優勝、コロンビア代表チームの監督もつとめて、1982年に古巣のエスツディアンテス・ラ・プラタの監督となり、同チームを国内選手権優勝に導いた力を買われて、83年に代表チームの監督となった。

 ビラルドはまず代表チームの中心となるプレーヤーはマラドーナと決め、マラドーナと何回も話し合って彼の精神的な成長とフィジカルフィットネスのアドバイスを心がけた。一方、外国で働くベテランと国内でプレーする若手とのミックスによるチームをつくりあげた。

 ワールドカップ予選をふくめて試合ぶりはアルゼンチン国民にとって不満が多く、そこへ、メノッティを信奉する記者たちのアジテーションもあって、ファンの過剰反応に、協会内部でも彼への不信も高まったそうだ。グロンドーナ会長の支持がなければ、彼は孤立無援となり失敗したかもしれない――と、親しい友人がいっていたほどだ。


 西ドイツ痛い失点

 西ドイツのキックオフではじまったゲームは、ゆっくりしたキープからブリーゲルの突進と、まず西ドイツの攻撃からはじまった。

 左CK、低いライナーをヘディングでクリアしたのがマラドーナ。

 そのマラドーナに対して西ドイツはマテウスがマークにつく。74年の西ドイツは、決勝でオランダに勝ったのだが、そのとき、いまのコーチのフォクツが、オランダのクライフをマークしたのを思い出す。

 マテウスの果敢な守備も、マラドーナの変化自在のプレーには、ときにファウルで対抗するしかない。21分、そのファウルからアルゼンチンにチャンスがめぐってくる。

 ペナルティーエリア右の外、マラドーナがヒールでパスを出したとき、背後からマテウスがタックルした。足を出したときにはボールはなく、マラドーナの足に、マテウスのクツが当たる。アルッピ・フィーリョ主審はFK、マテウスに黄色のカード、警告を示した。

 キッカーはブルチャガ。小さな助走でのキックは、速いカーブボールで、ゴールエリアの外を横切っていく。飛び出したGKシュマッヒャーが、手を出さず、オヤッと思ったときは、ファーポストにいたブラウンがヘディング、ボールはゴールの右へ飛びこんだ。

 守りに自信を持つ西ドイツ、その守りの“とりで”ともいうべきGKのミスに、わたしは、ぼう然となる。


 バルダーノ長走

 リードされれば攻めて同点にしなければならない。このため後半の西ドイツはマテウスをマラドーナのマークからはずして攻めにあがらせる。攻めこめば、カウンターを受けるときのスペースが広くなり、危険なのだが、あえて攻撃に出るところがベッケンバウアーの、いやドイツ流なのか。

 そのドイツの攻撃をアルゼンチンのDFはみごとにはねかえす。中央のブラウンとルジェリの2CBとバチスタらのポジショニングのうまさと、ヘディングの強さが目立つ。

 後半10分、それまで2波、3波と押し込んだ西ドイツが、ペナルティーエリア右外でFKを得て、攻めたが、このカウンターでまた2点目を失う。

 エデルのけったFKをファーポストのブリーゲル(?)がヘディングしたが、弱くて、GKプンピートがとり、すぐ、右の仲間へ投げる。受けたバルダーノがドリブルし、これにマガトがからみにいって、こぼしたボールはハーフラインの少し手前のマラドーナに。マラドーナは左のエンリケに5メートルのパス。エンリケがドリブルする前をバルダーノが左斜めへ走る。そのバルダーノへエンリケがボールを渡す。ノーマークのバルダーノは30メートルドリブルして、シュマッヒャーの右下を抜いた。自陣のゴールエリア右から、ドリブルし、さらに左斜めへ走ってパスをうけた、バルダーノの長走と、それに合わせたパスワークの生んだ、傑作のゴール。


 くじけない西ドイツ

 勝敗歴然−と誰しも思うが、ベッケンバウアーと仲間のドイツ人はそうではない。再三ファウル・タックルを食って不調のマガトにかえて長身のへーネスを投入。後半はじめからはいったフェラーとともに回復のゴールを狙わせる。

 その期待は、28分と37分の2つの左CKのゴールとなる。

 1点目はブレーメのニアポストへのライナー、フェラーが頭で方向をかえ、ゴールマウス右よりへとんだところに、ちゃんとルムメニゲがいた。

 2点目はロングコーナー、ブレーメがゴールエリア外へけったのにベルトルトがジャンプヘッドし、ボールの落下点でフェラーがうしろ向きの姿勢から頭を左へ振った。不調といっても、囲まれたなかで、ひたすら、ボールに合わせて叩くところはさすがにストライカーだ。


 絶妙のタテパス、マラドーナ

 しかし、西ドイツのものすごい粘りもここまで――いや、ここまでというより、同点にして、さあいけるぞと気合いがはいりすぎたのが裏目にでたのではないか。

 守って、相手の1人ひとりのマークをチェックするより、ゴールを奪うことに気がいってしまったのかもしれない。

 ミッドフィールドでのヘディングのやりとりのあと、マラドーナが、スルーパスを出し、ブルチャガがDFラインの背後へ走りぬけたとき、西ドイツは誰も追うものがいなかった。ブルチャガは落ちついてきめた。

 ベッケンバウアーの西ドイツのがんばりもすごかったが、ビラルドがマラドーナを中心につくったアルゼンチンの多彩な技術と、スピード、タフネスが、優勝者にふさわしかった。

 マラドーナのシュートの得点はなかったが、1点目のFKといい、2点目といい、3点目といい、すべてマラドーナがからんだもの。マラドーナあっての得点だった。

 終了のホイッスルとともにフィールドに大勢のファンが飛び出し、人の渦が何度となくできるなかで、ビラルド監督とマラドーナがしっかり抱き合っていた。

 そして面白いことに、場内を長い横幕を持って走る人たちがいた。それには、
ペルドン・ビラルド・グラシアス(すみませんビラルドさん、そしてありがとう)とあった。

旅の日程

▽6月29日 メキシコ・シティ

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