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カルチョ・ストリコ・フィオレンチーノ

 色彩豊かな行進

 ターン、ターン、タッタッタッタッ・ターン。・・・ターン、ターン、タッタッタッタッ・ターン・・・ゆったりしたラッパの吹奏とそれにあわせた小太鼓の音がローマのスタジオ・オリンピコに響く。

 記者席から見て、向こう側(バックスタンド)左下の入口から、まずよろいに身をかためた一群の武士がトラックにはいる。ついで旗が見える。

 電光掲示板に「SFILATA CORETEO DEL CALCIO STORICO FIORENTINO」と出る。

 カルチョ・ストリコ・フィオレンティーノ、ああ、フィレンツェの歴史的なフットボールをみせてくれるのか。

 1980年6月11日午後4時30分、ヨーロッパ・サッカー選手決勝大会の開幕試合西ドイツ対チェコ(午後5時45分キックオフ)を見ようと、早くからスタジアムに来ていたわたしは、イタリアの“古き時代”に興奮する。

 1863年にイングランドFAが創立され、現代のサッカーの基礎が固まったが、それよりもはるか昔に、サッカーの原形ともいえる競技が世界のあちこちにあった。古代ギリシャにも、古代ローマにも・・・ルネッサンスの都として名高いフィレンツェではこの古い形のゲームが中世までつづいた。1530年2月17日、皇帝カール五世の軍に包囲されていたフィレンツェで、市民の士気を鼓舞するためにカルチョの試合が行われたことが歴史に残っており、これを記念して、1930年に復活し、しきたりどおりに試合をするのが、いま同市の行事で年3回(五月のはじめと、6月24日、28日)の催しは観光の名物でもある。

 ラッパと太鼓の壮重なリズムと、進んでくる行列を眺め、先頭のヨロイを着た集団は1・4・2の配列で合計六人、そのうしろの武士はさらに六人、それに守られるように白地に赤いユリをあしらった旗(フィレンツェの市の旗)を持つ人・・・右脇には小姓が一人・・・などとメモを取ってゆく。フィレンツェ市の「衣装をつけたカルチョの市民委員会」が発行したパンフレットに行列を構成する人たちの役柄やグループを42に分けて記してあるが、その11番目、審判長と並んで歩く大男が青と白のボールを左右に持っていた。パッライオと呼ぶらしい。上衣の前半分が赤、うしろがブルー、ズボンの左のモモが赤、右はブルーと白のシマ。ストッキングは左がブルー、右が白。という派手な衣装の彼が、正面スタンドの前で、ボールを高々と差し上げると、うしろに続くアルビトウリ(審判)、ジューティチエ・ティ・カンポ(副審)が帽子をぬいであいさつする。物腰の優雅さ、衣装のけんらんに、拍手を送るこちらも400年のタイムトンネルをくぐる思いだ。

 行列のラストはフィレンツェ名物のひとつ旗手のグループ。たしか74年ワールドカップ(西ドイツ)のときに彼らが旗を天に抛りあげ、受け止める妙技を見たことがあった。古い時代の戦闘のときに部隊の位置を知らせ作戦の合図をすることからきたものだという。その由緒ある16本の旗の前にピノキオとボールの大会マークの2本の旗があった。

 さて、馬にまたがった騎士や鉄砲隊までのもりだくさんの行進がすんで、フィールドでの試合がはじまる。


 ほとんど足は使わない

 試合の規則や、行列の順序については1580年に発行された「ディスニルソ・ソプラ・イルジォコロ・ディ・カルチョ」(カルチョ競技についての議論)によっているとか。長方形のグラウンド(普通は砂地)の横幅一杯にネットを付けた防御棚を設け(ゴール)、グラウンドの広さは、私の目測で長さが70メートル弱、幅が35メートル強。青(アズーリ)白(ビアンキ)の両チームは27人ずつ。ゲームは通常は60分だが、この日はエキシビジョンで30分。さきのパッライオがボールを投げ入れ、カルバリン砲がバーンと鳴ると開始。

 相手のゴール(ネットのついた棚)にボールを入れると1点、そのシュート(ける場面はなく、投げていた)がはずれてオーバーすると、相手側に0.5点が与えられる。

 ボールはけっても投げてもいいのだが、カルチョ(けること)という言葉で想像したのと違って、ほとんど足は使わないで、手で投げていた。相手をつかまえ、引き倒す、興奮してなぐりあいがはじまる。と、そこへワーッと加勢にかけつけ、ボールを奪い合っている一群とは別に、とっくみ合いがそこここではじまる。それをカピターノ(キャプテン)や審判が分けにはいるが、本気でなぐり合う“衣装を付けたカルチョ”を見ると、今のイタリア・サッカーにある“優美さと荒々しさ”も、また歴史的なものかと、おかしかった。

 そしてまた、わたしには、カルチョという言葉を使い、また古くから足でボールを扱うことを知ったはずのイタリアで、フィレンツェに残るこの競技が、サッカー的と言うより、ラグビー的で、アメフト的であるのが、不思議でもあり、また、わたしのスポーツの仮説“遊びと鍛練”とにあてはまる例として強く惹かれるのだった(この件は後日に・・・)。

<サッカーマガジン 80年11月>

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