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75歳を超えてなお現場に立つ“鉄の人” デットマール・クラマー(続)

師匠が見込んだコーチの資質

 1960年10月の来日以来、メキシコ・オリンピックまで8年間、どん底時代にあった日本サッカーのレベルアップに費やし、メキシコでの日本代表の銅メダル獲得という成果を挙げたクラマーは、初来日のときは35歳の若さだったが、すでにプロコーチとして10余年のキャリアを積んでいた。
 ドイツ・ドルトムントに生まれ、ドルトムントやウイスバーデンのクラブでプレーした彼は、第2次大戦中はパラシュート部隊の指揮官としてクレタ島やサハラ砂漠、そして東部戦線での過酷な戦場体験を経て、荒廃した祖国で、西ドイツ協会(DFB)のゼップ・ヘルバーガー主任コーチの情熱に出合う。
「ドイツサッカーを復興するためには、まず100人のコーチをつくろう。100人の優秀なコーチが100人を教えて1万人のコーチを生み出し、彼らが選手育成にかかわれば成果は挙がる」と、コーチ育成を図ったヘルバーガー(1897年3月28日〜1977年4月28日)は大戦前の36年に、理論派の巨匠、オットー・ネルツ(2月号参照)のアシスタント・コーチを務め、戦後は初代の西ドイツ協会主任コーチとなる。そのヘルバーガーにコーチの資質を見出されたクラマーは、49年、24歳の若さで西部地区協会の主任コーチのポストに就き、伝統あるデュイスブルグのスポーツ・シューレ(スポーツ学校)のヘッドを63年まで務めた。
 彼の日本での業績に注目したFIFA(国際サッカー連盟)は67年に「FIFA史上、初めて契約する高い資格を持つ」コーチとして迎える。61年から(74年まで)第6代FIFA会長となっていたサー・スタンレー・ラウス(1895年4月25日〜1986年7月8日)はサッカー後進地域のレベルアップに積極的で、クラマーの人間性を高く評価し、彼にアフリカ、アジア、オセアニアなどのうち英語圏での指導を委嘱した。コーチを受けた各国の効果は大きく、ついにはスペイン語圏の中南米にまで足を伸ばし、FIFAとの契約が終了する74年6月末までに巡回した国は70ヶ国に達した。
 FIFAコーチとなってからも、彼の日本への思いは強く、時間を見つけては来日した。メキシコ・オリンピックのとき、彼はFIFAの技術委員会の一人で、中立の立場だったが、日本ベンチのすぐ上のスタンドに座って「自分流の中立」を続け、ときに適切なアドバイスもした。
 そのメキシコ・オリンピックの翌年の7月15日から3ヶ月間、日本で開催された第1回FIFAコーチング・スクールはFIFAにとっても、彼にとっても、日本にとっても初めての大仕事。アジア各国のコーチを集めて、実技と講義を繰り返し、試験を通ったものにライセンスを与える──その講義内容のすべてをクラマーが決め、必要な学科は専門家に委嘱した。
 講義4時間、実技4時間は受講者にも厳しい日課だったが、一番仕事の多かったのはクラマーだった。FIFAとクラマーのアイデアに賛同した当時の日本協会は、苦しい財政の中から2500万円をこのスクールのために投じている。これが一つのモデルとなって、国内でコーチ育成が進んだ。今日のJリーグあるいは日本代表のレベルアップが、選手たちの少年時代での適切な指導にあるとされているが、そのスタートがこの第1回FIFAコーチング・スクールといえた。そして、このスクールの1期生──直接にクラマーの情熱に触れた──は93年のJリーグ創設時に技術や運営の面で力となっている。


トップチームの監督、欧州2連勝

 FIFAのコーチとして単に世界を巡回するだけでなく、長期的なスクールをもアジアで成功させたクラマーのアイデアと実行力は、それぞれの大陸連盟への大きな刺激となったが、74年6月、FIFAとの契約が終わった後、クラマーはアメリカ・サッカー協会と契約する。新天地を求めたわけだが、そのすぐ後に、西ドイツのバイエルン・ミュンヘンから監督に請われる。
 74年ワールドカップ優勝メンバーのうち6人を持ち、ブンデスリーガ3連勝、欧州チャンピオンズ・カップ(現・チャンピオンズリーグ)優勝のチームが、ワールドカップ後の主力選手の不調と故障続出で凋落(ちょうらく)したため、その立て直しを図るためだった。もちろん、クラマーがDFBユース担当のころの教え子、ベッケンバウアーの強い要望もあった。
 トッププロの監督という新しい仕事にクラマーはポジティブに反応し、75年1月からチームの指揮を執り、順位を中位に戻すとともに、欧州チャンピオンズ・カップのタイトルを守った。パリのパルク・ド・プランスでのリーズとの決勝は、ビリー・ブレムナーやジョーダンの強烈な攻撃に耐えたバイエルンがロートとミュラーのゴールで2−0の勝ち。瀕死の状態のチームをよみがえらせて、チャンピオンズカップを勝ち抜いた監督の手腕──。「後進地域では成果を挙げたが、世界一(当時)の西ドイツのトップリーグではどうか」と、疑いの目を持っていたメディアも脱帽するだけだった。
 次の75−76シーズン、リーグのタイトルは奪回できないが、チャンピオンズカップは2回戦でマルメ(スウェーデン)を、準々決勝でベンフィカ(ポルトガル)を、準決勝でレアル・マドリード(スペイン)と強豪を倒し、決勝ではサンテチエンヌ(フランス)を1−0で破って、チーム3連勝。クラマーには2年連続の栄誉となった。


ルムメニゲを育て、廬廷潤を導く

 77年に彼はバイエルンを去るが、この間、ブンデスリーガの優勝はなくても、独特の個人指導で若い選手を育てる。そのなかで一流への道を開き、80年代の西ドイツを支えたヒーロー、カール・ハインツ・ルムメニゲは「3年間、毎日、個人練習につきあってくれたクラマーは私の恩人」と言っていた。
 74年ワールドカップ優勝世代が衰え始めたとき、次の世代の中心になる選手の素材を見つけて個人指導する──日本でも、メキシコ世代を育てた彼の能力は母国でも発揮された。
 しばらくプロのトップチームの監督業を続けたクラマー。そのなかにはサウジアラビアのメッカに近いジッダのクラブやギリシャのサロニキなど、日本になじみの薄いところもあるが、90年代のはじめに韓国のオリンピック代表をも指導した。彼らは本大会Dグループで3戦3分け、3位となって準々決勝へ進めなかったが、このチームの廬廷潤はクラマーによってサッカーのより広い世界を教えられた一人。セレッソ大阪で活躍している彼は「自分が本当にサッカーをやろうと思ったのは、クラマーさんのおかげ」といっている。


経験と直覚、すべてポジティブに

 世界中を巡回指導し、ドイツとサウジアラビアとギリシャでトッププロの監督という修羅場をくぐった彼は、再び、青少年の育成とコーチの指導に取り組み、75歳を超えても、なお、現場に固執する。現在はアディダス社と契約し、アジア連盟との話し合いで、中国のコーチ研修を行なっている。
 中国足球学校(河北省秦皇島市)での熱心な指導、早朝にダンベルでいまなお、自らを鍛えるクラマーを中国の新聞は“鉄人”の見出しを付けたが、一つひとつの講義や実技の後に、その日、何を教わったかの要点を印刷して渡す──という行き届いた気配り。教わった者がものにできないのは、教える者の責任──という使命感は今も衰えることはない。
「今、これを教えておく時期だ──と、どうしてつかむのか──だって、アナタが見た私のいくつかの例は、私にもなぜか分からない。多分、経験もあるんだろうが、そのときの直感、あるいは直覚というものがある。コーチに直覚は必要なのだ」
「近ごろは子どもたちは早い時期から指導を受け、キミのポジションはここだと指示され、いろいろ教えられるが、子どもたちが自分で才能を伸ばせる自由がなくなっている」
「いま、指導の対象をなにか一つにしぼるなら──12歳ごろの少年を教えたい。彼らはあらゆる可能性を持っている」
「私はすべてにポジティブに考えてきた。そして、監督のときも、指導のときも、常に冷静を保った。もし、自分が冷静さを失っていると思ったときは、選手に向かってはしゃべらなかった。パラシュート部隊のコマンダー訓練で、こういわれた。『感情が高ぶっているときは、兵士にではなく、森に向かって怒鳴れ』と」


★CRAMER MEMO

FIFAコーチング・スクール
 第1回FIFAコーチング・スクールは1969年7月15日から10月15日までの3ヶ月間、千葉県の東大検見川スポーツセンターで行なわれた。
 FIFAは、コーチや審判の講演会をそれまでにも行なってきたが、このような長期にわたる計画は初めてで、当時の会長、サー・スタンレー・ラウスは「アジアにおけるクラマー・コーチの業績から、アジア諸国のコーチを集め、日本で3ヶ月の実験的な研修を組織し、指導させることにした。FIFA技術委員会は、この計画の報告に深い興味を持っている」と開校式で述べ、10月の終了式にも再び来日して、受講者に世界初のFIFAコーチ・ライセンスを渡した。
 3ヶ月の教程は、毎日4時間の講義、4時間の実技があり、用語はすべて英語。サッカーに関するすべての理論と実技はデットマール・クラマーが教える。日本サッカー協会の長沼健、岡野俊一郎、平木隆三、八重樫茂生の各コーチが助手を務めた。講義の中で解剖学と救急法、マッサージは鈴木義昭博士、生理学は石川洋平博士、心理学は太田哲男(現・鉄男)教授、教育学は多和健雄教授が担当した。
 アジア12ヶ国から42人が参加し、全員がライセンスを受けた。うち日本からは12人。のちに日本代表監督となった加茂周、ユース監督・大橋謙三、大商大の上田亮三郎、グランパス創設と経営にかかわった西垣成美、浦和レッズの社長を務めた清水泰男もいた。
 日本の参加者、畑山正、加茂周、松田輝幸、長池実、中村義喜、西垣成美、大橋謙三、折出成生、清水泰男、鈴木嘉三、上田亮三郎、吉田達法──この12人とともに助手を務めた4コーチもライセンスを受けた。
 FIFAとアジア・サッカー連盟(AFC)は、このスクールの成功に力を得て、72年1〜3月に第2回FIFA・アジア・コーチングスクールをクアラルンプール(マレーシア)で、第3回を73年10〜12月にテヘラン(イラン)で開催した。クラマーの指導は世界70ヶ国におよんだが、特に英語の通じるアジア地域では、こうした質の高いコーチング・スクールによって彼の指導が浸透し、現在の大幅なレベルアップの基礎となった。

母国語より英語
 クラマーの教え子の一人、松本育夫(メキシコ五輪銅メダルのメンバー)が80年代に恩師を訪ねたとき――。
「そのころ勉強していたドイツ語で、クラさん(クラマーの愛称)に話しかけたところ、しばらく私の顔を見ていた彼が、答えたのは英語――だった。私のドイツ語は通じないのかとちょっとショックでした」そうだ。
 後に、その話を聞いたクラマーは、「うん、そんなこともあった。そのころ私は、サウジアラビアやギリシャでコーチをしていて、サッカーについては英語で話すクセがついていたのだ。だから、マツモトにもそうしたのだと思う」と言った。
 FIFAのコーチとなり、英語圏各国の巡回指導をし、講義を重ねて英語をマスターしてしまったクラマー。サッカー仲間や弟子たちには、つい英語が口から出るというところが彼らしい。


(月刊グラン2001年6月号 No.87)

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