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W杯開催国の会長、IOC委員――日本スポーツ界の顔 岡野俊一郎(中)

ワールドカップ招致提案書とドルトムント

 1953年(昭和28年)、西ドイツ(当時)のドルトムントで開催された国際学生スポーツ週間(現・ユニバーシアード)に岡野俊一郎は長沼健たちとともに参加した。多くの得難い初体験のなかで最も心に残ったのは、大会初戦の対西ドイツ戦に3−4で敗れたとき、選手村の食堂に戻った日本イレブンに送られた各国、各種目の選手たちの大きな拍手だった。
 開催国で優勝候補の西ドイツを相手にフェアでエキサイティングな試合を演じた日本代表チームに、開会式直後のスタンドで観戦したすべての参加選手が深い感銘を受け、敗れた日本代表をスタンディング・オベーションで迎えたのだった。(この連載の2003年10月号=長沼健・中=にも記載)
 のちに2002年ワールドカップ招致委員会の委員長になったとき、岡野が「招致提案書」の冒頭に掲げたのが『感謝を込めて――17人の感動が世界中の感動に変わる日』と題する序章だった。このとき拍手を受けた17人の若者たちが“サッカーは世界共通の言葉であることを理解した”こと――。その思いが、“ワールドカップ開催を通じて、世界サッカーの発展と人類の平和と幸福に貢献したい”と願うようになったことを格調高く謳(うた)っている。
 オリンピックやワールドカップのようなビッグなスポーツイベントの開催には、その経済的効果がうんぬんされるが、この招致提案書は若い日の感動とともにスポーツの原点を開催理念としたところが素晴らしい。“KOREA JAPAN”の共催となった2002年大会は、提案書の理念どおり、世界を一つに結んで大成功のうちに終わったことは記憶に新しい。


ビルマ遠征、長沼健との友情

 22歳で日の丸のユニホームを着た岡野俊一郎は1955年(昭和30年)のビルマ(現・ミャンマー)、タイ遠征の代表チームに選ばれる。若返った代表チームのなかにドルトムントの仲間、長沼健や平木隆三などもいた。竹腰(たけのこし)重丸監督、岩谷俊夫コーチに率いられたこのチームは、ビルマで5試合、タイで2試合し、4勝2分け1敗の成績を収めた。岡野は5試合に出場し、FWの中軸として活躍したが、このとき選手兼任のコーチであった岩谷は、この遠征中に選手・岡野のなかに、コーチとしての資質を見抜いていた。長沼は負傷のために試合はほとんど出られなかった。ビルマのラングーン(現・ヤンゴン)で岡野が原因不明の発熱をしたとき、看病したのが長沼。
 夜中に目を覚ますと長沼が“氷のう”を取り替えてくれている。礼を言うと「俺は試合に出ないのだから……」と――。
「1947年の中学校の全国大会で5−0で負けたのに続いてのこの看病です。それから健さんのあとにくっついて行くようになった」とは岡野の回想。
 次の年、1956年にこのビルマ遠征組を主力にした日本代表が韓国との予選を戦い、メルボルン・オリンピックに出場したが、岡野は残念ながらメンバーから外れてしまった。
 すでに家業の和菓子店、岡埜栄泉の仕事をしていた。大学卒業後、企業のチームに入っていれば練習もできるし、公式の試合の場もあるのだが……。日本サッカー協会の技術委員会から指導第一部に入るように――との要請を受けたのも、そうした時期だった。
 メルボルン・オリンピックの本大会・1回戦で敗れた日本代表は、1958年の第3回アジア大会(東京)でも1次リーグで敗退し、いわゆるドン底時代を迎える。


コーチ留学、29歳でユース代表監督に

 1960年(昭和35年)のローマ・オリンピックの予選で韓国に敗れたあと、日本協会は1964年の東京オリンピックを目指す日本代表の再建を図り、西ドイツからデットマル・クラマーをコーチに招いた。
 クラマーの2ヶ月間の指導は、日本中に大きなインパクトを与えたが、このとき、彼の通訳をし行動をともにした岡野は、1961年1月から3月まで西ドイツに出かけてコーチとしての研修を受ける。
 1954年のスイスでのワールドカップで優勝した西ドイツ協会(DFB)のヘルパーガー主任コーチをはじめ、世界に名だたる指導陣の教えを受けて帰国したコーチ・岡野には、4月からの第3回アジアユース大会での日本代表監督の仕事が待っていた。
“アジアの実力アップには、まず若い選手の育成を”と考えた当時のアジアサッカー連盟(AFC)の会長であり、マレーシアの首相でもあったトンク・アブダル・ラーマンの提案で始まったこの大会に、日本協会もまた、若年層への大きな刺激と考え、U−20という年齢よりもまだ若い“高校選抜チーム”を送ることにしていた。第1回は高橋英辰(ひでとき)、第2回は岩谷俊夫といった戦前、戦中派の代表監督から、第3回には29歳の岡野を起用したところに協会技術委員会の、若い世代にかける期待の大きさが知れる。
 タイのバンコクで開催された大会で、日本はA組のグループリーグを1分け3敗で4位に終わった。のちに日本代表となるGK横山謙三や小城得達(おぎ・ありたつ)、杉山隆一、桑原楽之(くわはら やすゆき)らがいたが、右サイドの攻撃を期待された川瀬隆弘(広島大付属高)を故障で欠いたのと、第1回大会から連続3回出場の杉山が最初の試合で足を負傷したのも響いた。大器・釜本邦茂が高校1年生という理由で参加を辞退したのも痛かった。


東京、メキシコ、長沼、岡野のペア

 監督・長沼健、コーチ・岡野俊一郎――東京オリンピックまで2年足らずの1962年(昭和37年)秋にこう決まったときは、長沼、岡野にとっても「正直いって、寝耳に水」だったらしい。
 日本協会の技術委員会は代表チームにクラマー流が浸透し始めたのを見て、ベテランの高橋英辰監督から、選手と年齢があまり違わない長沼、岡野組に移行した方が得策と考えた。32歳の監督と31歳のコーチの2人はすでに、お互いに気心もよく分かっていたし、性格も能カも知っていた。そして、この2人のカと組み合わせがより大きなカになると、最も強く推したのがデットマール・クラマーだった。
 東京オリンピック前の合宿と海外遠征を繰り返し、そして1964年10月14日、駒沢競技場での本大会、1次リーグ初戦の対アルゼンチンに3−2の逆転勝利――それは、そのあとに続く対ガーナ(2−3)、対チェコスロバキア(当時、0−4)の敗戦を覆い隠す1勝だった。
 それから4年間の日本サッカーは上昇ムードだった。1965年の日本サッカーリーグの開設、66年アジア大会3位、67年秋のメキシコ・オリンピック予選突破、そして同オリンピックでの銅メダル獲得。10年前のアジア大会でアジア最下位にあった日本代表がわずかの間に、アジアのどの国もできなかったオリンピック・サッカーでの3位入賞を果たしたのだった。日本協会の世帯も小さかったそのころ、毎年1回、夏期の1ヶ月以上のヨーロッパ(ソ連を含む)または南米への長期ツアー、春のアジア・ツアーをはじめ、アジア大会などの公式戦を含む81試合すべてをメキシコ・オリンピック本番までに計画し、相手国協会との折衝から代表チームの練習まで、驚くべき量の仕事をこなしてきたのが岡野だった。
 サッカーのコーチとしても、チームプレー、戦術などの理論展開の巧みさと同時に、プレーヤー個々の技術、体カ、調子の整え方についても力を発揮した。
 ストライカー・釜本邦茂のヘディングのタイミングが合わないときは、自らクロスを蹴ってタイミングを取り戻させようとした。
 ある時期に釜本のシュートが決まらなくなったとき、「踏み込みを小さぐする」ことを勧め、それがきっかけで再びゴール量産が戻ったこともあった。1968年のアジア大会の3位決定戦で釜本が足を痛めたとき、岡野コーチはハーフタイムに水薬をつけて、「これで大丈夫だ」と送り出した。後半、彼のゴールでシンガポールに2−0で勝った。
 何の薬をつけたのかと聞いたら、岡野は「ただの水ですよ」と答えたものだ。
 そうした仕事をこなすだけでなく、テレビ放送でも岡野はサッカー解説者として、そのキャラクターを発揮した。


★SOCCER COLUMN

テレビ放送と岡野俊一郎(1)『ダイヤモンドサッカー』
 東京12チャンネル、今のテレビ東京がサッカー番組を取り上げたのは1968年(昭和43年)4月。解説者・岡野俊一郎と金子勝彦アナウンサーの話術が一躍、スポーツ界で話題になった。
 大御所・田辺五兵衛さんが「岡野くんの素晴らしい解説で、サッカーはさらに盛んになる」と喜んだものだ。
 岡野は言う「日本協会の副会長であり、三菱化成の社長で東大サッカー部の大先輩である篠島秀雄さんから電話があって『今度、三菱グループがバックアップしてサッカー放送をやるから、君に解説を頼みたい』と。なんでも、篠島さんがロンドンに行ったときに三菱商事の支店長だった諸橋晋六さん――この方もサッカー部の先輩で、のちにワールドカップ招致にかかわる――にBBC放送の『マッチ・オプ・ザ・デイ』というサッカー番組の話を聞き、それを日本でもということになったらしい。大先輩の篠島さんからの直接の話だから、私は電話を持ったまま、ハイと頭を下げましたよ」。
 第1回はマンチェスター・ユナイテッドとトットナム・ホットスパーだった。
 岡野はすでにNHKで高校サッカー選手権の放送解説をしていた。落ち着いた声音で生粋の江戸っ子だから、変ななまりがあるわけない。サッカーはよく知っている。分析カはある。話す内容もいい――。
 そんなところから白羽の矢が立った。
 バックアップが三菱だから『ダイヤモンドサッカー』という番組名となったが、20年も続いたこの放送とともに育ったサッカー好きは多い。
「つい最近も地下鉄で隣にいた人が『ダイヤモンドサッカーの岡野さんですね』とサインを請われ、照れましたよ」

テレビ放送と岡野俊一郎(2)小西得郎さんの激励
 NHKで最初にサッカーの試合を放送したのは1961年(昭和36年)。ユーゴスラビアが韓国でのワールドカップ予選の帰途、日本代表と試合をしたとき。アナウンサーは鈴木文彌だった。
 「その鈴木さんにいろいろ教わったが、あるときNHKのパーティーの席上で、野球解説の小西得郎さんが私の方にやって来て『岡野さん、サッカーの岡野さんでしょう。あなたの解説はとてもいいですよ。そのまんま、これからも続けなさい』と言ってくれた。とても勇気づけられた」
 野球界の大先輩であった小西さんは独特の語りロで、常に選手には愛情に満ちた解説で、多くの人に好かれていた。
 名解説と言われた人からの激励は、ずいぶん励みになった。
 自らペンを執って、協会機関誌への試合評、代表チームのリポート、戦術の解説などでも立派な記述を残したが、放送という分野での活躍によって、幅広い交際が生まれ、岡野のもう一つの顔となった。
 現在、天皇杯の決勝が元日に行なわれるようになったのも、NHKとの関係から――。岡野は今も、全国ラジオ体操連盟会長の肩書を持っている。


(月刊グラン2004年3月号 No.120)

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