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日本の隅々まで足を伸ばし サッカーを教えたブラジル人 セルジオ越後(下)

 日本サッカーがいまの“かたち”になるまでに、その時々に大きなカとなり、影響を及ぼした人を紹介する連載『このくに と サッカー』。今回は前号に続いてセルジオ越後――59歳の日系ブラジル人で、「アクエリアスサッカークリニック」で全国を飛び歩き、テレビやラジオで語り、新聞、雑誌に辛口の批評を述べる、現代のサッカー伝道師についてである。


さわやかサッカー教室のスタート

 サンパウロに生まれ育って、ブラジル・サッカーの名門「コリンチャンス」でのプロの経験を持つセルジオが、日本の藤和不動産のチーム(現・湘南ベルマーレ)に入ったのが27歳のとき。3年間プレーした後、永大産業に移ってコーチとなったが、会社の業績不振でサッカー部の活動は止まってしまう。その彼にコカ・コーラ社から「サッカー教室」の企画が持ち込まれた。
 コカ・コーラ社はFIFA(国際サッカー連盟)に協力して、ワールドカップなどのスポンサーにもなっている世界企業だが、セルジオがすでに始めていた山口県平生町の永大グラウンドを利用しての少年サッカー教室や、そのほかの地域で行なった講習会での評判を聞いて、全国巡回のサッカー教室を提案したのだった。
 日本でプレーしてみて、同じサッカーでも自分が育ったブラジルとは大きな隔たりがあることを知り、子供たちにまずサッカーを楽しんでほしい――と思っていたセルジオにとって、このサッカー教室はうってつけだった。そして、永大の選手で5歳年少の平田生雄(いくお)が一緒にやろうと参画した。


ボールと遊び、楽しもう

 セルジオと平田によってスタートしたコカ・コーラの「さわやかサッカー教室」は初年度に73回3万6千人余りが参加し、大盛況だった。
 その頃の日本サッカーは1968年(昭和43年)のメキシコ五輪での銅メダル獲得の後、ワールドカップや五輪予選で負け続けていた。一握りの選手の強化の成功はあったが、絶えず国際舞台で働ける選手をそろえるのは難しかった。
 チームワーク重視の日本であっても、いいチームをつくるためには個人技術が大切だと、ようやく多くが気付き始めていた。
 そしてまた、78年のワールドカップ・アルゼンチン大会で開催国が優勝し、マリオ・ケンペスのドリブル・シュートをはじめ、アルゼンチン選手たちのボールテクニックの高さに、日本の指導者の目が注がれるようになっていた。
「さわやか教室」は、そういうタイミングをとらえたものだった。


サロン・フットボール→フットサル

「さわやか教室」のスタートは成功し、バックアップする企業も力が入った。いまのように地方に空港のない頃で、全国行脚は大変な仕事だったが、好きなサッカーを子供たちと一緒にできる魅力で、どんどん年月を重ねた。教室に参加した小学生たちは高校サッカー選手権で活躍するようになり、日本代表となった。
「さわやか教室」は「アクエリアスサッカークリニック」と名称が変わってからも、盛況が続いているが、約30年間に50万人を直接指導したセルジオの誇りの一つは、多くの選手のタマゴに刺激を与え、その成長に役立ったというだけでなく、20年後、30年後のいま、社会の中心となって働いている人たちの何人かに、サッカーを好きになってもらったはずだという思いである。
「ある寿司屋さんで、そこのご主人に『私もさわやか教室に行きました。いまも参加証を持っていますよ』と言われたときは、とてもうれしかった」
 サッカーを通じての人の和が広がることを願うセルジオは、サッカー教室をやりながら、サロン・フットボールを日本で普及させることに力を入れる。
 ヨーロッパではミニ・サッカー、ブラジルではサロン・フットボールの呼び名で、体育館の中や、狭いグラウンドで行う少人数のサッカーが盛んになり、80年代から広がり始めた。しかし、日本ではなかなか受け入れられず、ブラジルからチームを招いて試合をし、自ら仲間とチームをつくって試合をしてみせたセルジオの努力も、すぐには実らなかった。
 やがてFIFAが「フットサル」という名を付け、世界選手権を開催するようになって、日本でも一気に盛んになった。
 いま、関東でも関西でも、フットサルのチームは猛烈な勢いで増えていて、コートも新設が続いているが、このあたりにも、誰にでも手軽にサッカーをしてもらうため、日本でサッカーをもっと盛んにするためと考え、実行してきたセルジオの先見性と実行力が見られる。


幅と奥行きのあるコラム

 サッカー教室の成果とともに、セルジオの考えに共鳴する人たちが増え、メディアにも登場するようになる。自分で書くことはともかく、語ることはずいぶん上手になった。
「日本の常識は世界の非常識、世界の常識は日本の非常識」と評論家の竹村健一氏の言を俟(ま)たなくても、日本社会の現実をぼつぽつ怪しみ始めた多くの日本人にとっても、セルジオの意見は誠にもっともと納得できるものがある。
 現在、彼の持っているコラムは別記のとおりだが、最近の週刊朝日にアテネでの日本オリンピックチームの敗戦について書いたものに、次のようなくだりがある。
「3試合目を残してベスト8進出への道を絶たれた五輪代表の戦いぶりを見て、6年前、フランス・ワールドカップに出場した日本代表を思い出した。惨敗という結果に加えて、そこに至るまでの経過においても、重なる部分があまりにも多かったからだ。
 予選で大苦戦を強いられたこと。ドラマチックなまでの戦いで、本大会への進出を決めたこと。監督や選手たちが、予選を突破しただけでスターのように持ち上げられたこと。そして、本大会で惨敗したこと――。顔ぶれは違うが、ほとんど同じ道をなぞっている。」(週刊朝日2004年9月3日号『サッカーの正論』より)
 こういう書き出しで始まったコラム『サッカーの正論』は、山本監督の采配や、オーバーエージの高原選手の問題にも触れ、注目度の高いオリンピックで活躍できなかった“谷間の世代”は、一からやり直さなければならなくなったと言い、さらに暗雲はアテネ組の未来だけでなく、日本は世界レベルどころか、アジアレベルでも苦戦を強いられている状態であり、日本サッカーの将来そのものが大きく揺らいでいるとしている。


日本サッカーの伝道師

 サッカーがメディアで大きく取り扱われるようになって久しいが、メディアの中軸になっている記者たちの年齢は若く、ほとんどがサッカー好きである。若いために、物事を長い目でとらえることが少なく、目の前の試合の3DFがどうだった、4DFが機能したか、監督のメンバー交代はどうだったか――というところに目がいってしまうことが多い。そういう記事やコラムが多い中、日本サッカーの歴史の流れの中でアテネの敗戦をとらえ、社会的背景に目を配るこうしたコラムが、記者としての訓練を経たライターの中からでなく、ブラジル人で、元プロサッカー選手であったセルジオのものであることに、あらためて驚かされるのだ。1930年(昭和5年)の第1回から94年までのワールドカップすべてを取材したディエゴ・ルセロさん(故人=ウルグアイ)も、元プロ選手だったが……。
 この『サッカーの正論』だけでなく、彼のコラム、コメントの端々には日本サッカーヘの強い思いがいつも潜んでいる。
 30年来の仕事仲間である平田によれば、セルジオは「日本サッカーをよくしたいと誰よりも思っているオヤジさん」だという。
 日本のサッカーにかかわって30年。日本人の誰よりも、日本の隅々まで足を伸ばしてサッカーを伝え、サッカーを語ってきたセルジオは、来年、還暦を迎えるが、現在、まだまだ働き盛り。彼の目指すスポーツで人の和を広げ、楽しい社会をつくる仕事も、いよいよこれからというところだ。日本代表の試合に目を光らせると同時に、Jリーグの地域密着を大切にし、Jリーグのクラブが自分たちの経営だけでなく、スタート時の理念を各地に広める動きをするように――と願うセルジオの今後の10年を見てみたいものだ。


★SOCCER COLUMN

ひざでポールを上げられる?
「君はボールリフティングできるの?」
「手で持ってするのもいいが、地面にあるのを足で上げてごらん」
「上手だね。ちゃんと上げられるのね」
「だけど、そのやり方(つま先を使う)と違う方法で上げてみて」
「こういうのもあるよ」(右足アウトですくうように上げる)
「これもある」(両足で挟んで上げる)
「これもある」(転がってくるボールをひぎをついて、太ももの上をすべらせて上げる)

 セルジオ越後の「教室」では、ボールリフティングを始めるときにも、単に一つのボールの上げ方だけでなく、足のどの部分を使って、どのようにすればボールを生かせるのか――と問いかける。つまり物事を見るのに片側だけでなく、いろいろな方向から見ること、ボールを上げるのに一つのやり方だけでなく、いくつものやり方があることを自ら手本を示しつつ語りかける。
 そこに子供の頃、年長老にさまざまな遊びを教えてもらったブラジルでの少年期の思いがある。一緒に遊びを工夫する中で、上達するという考え方が根強く入っている。

サッカーのひらがなと漢字
 セルジオ越後は日系2世だが、ブラジルではポルトガル語(ブラジル語)がもっぱら。
 両親同士の会話は日本語だったから、耳では聞いていたが、自分でしゃべることはなかった。それが日本に来て、サッカー教室をすることになった。
「賀川さんが初期の教室を見に来たときに、こう言ったのをいまでも覚えていますよ。『セルジオの日本語は小学生にちょうどいい。だから子供に人気があるんだ』とね。それから僕は『サッカーにはひらがながあって、カタカナがあって、漢字がある。小学校のときには、漢字を全部覚えなくてもいいんだよ。そういうふうに小学生らしくサッカーをすればいい。全然それで、遅れてないんだから。高校に入ってから漢字を覚えればいいのだ』とサッカーに、このことを応用したのですよ」
 私が小学生にちょうどいいと言ったのは、難しい言葉が話せないから、言葉ばかりで説明するのでなく、小学生と同じレベルの言葉で語り、動作で見せるのがいい――という意味だったのだが……。
 いずれにしても、人から聞いたことをすぐにポジティプにとらえ、自分流に解釈して応用するところに、セルジオの頭のよさがあると同時に、現在、サッカーの語り手として、多くの日本人を納得させる基盤があるようだ。

セルジオ越後の主な活動
<テレビ、ラジオ>
 *日本テレビ「ズームイン!!SUPER」
 *テレビ朝日 Jリーグ、日本代表、国際試合など解説
 *南海放送ラジオ「セルジオ越後のサッカーを100倍楽しむ方法」

<スポーツ紙、雑誌など>
 *日刊スポーツ「辛口ジャッジ」
 *週刊朝日「サッカーの正論」
 *週刊サッカーダイジェスト「天国と地獄」
 *月刊GOAL

<主な著書>
 *『日本サッカー黙示録 ジーコジャパンヘの緊急通告』(廣済堂出版)
 *『セルジオ越後の子育つ論』(PHP文庫)
 *『激心 日の丸を背負った男たちへ』(廣済堂出版)
 *『ジーコジャパン・ザ・ビギニング』(講談社)


(月刊グラン2004年10月号 No.127)

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