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大戦争前の光彩(5)

 前号で少し触れた通り、大会全部というわけにはいかなかったが、EURO2000の後半部をのぞいた。フランス―ポルトガル、オランダ―イタリアの準決勝に、筋書きがあって筋書きがないサッカーの面白さ、不思議さを見ることができた。
 今回はベスト4のうち、オランダ以外はすべて南ヨーロッパ勢で、ドイツ、イングランドをはじめ、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーといった北方組の低迷に彼らの技術の停滞を、そして南欧の大型化に驚いたものだ。


部長の転任とコンディショニング

 さて、私のクロニクルに入ろう。
 昭和14年(1939年)、私が3年生でサッカー部に入部した年、実は大きな問題が起きていた。
 河本春男部長が、岡山女子師範へ転任したのだった。サッカーをよく知っているだけでなく、自らの手でOB会を作り運営して、年長の先輩たちにも信頼されていた部長の転任は、大きな損失だった。のちに池田校長の話によると、岡山の校長が河本先生を欲しいと、直談判に来たということだった。
 後任はやはり東京高等師範卒業の岩田太郎先生、温厚な新任の先生は練習計画などにも口を出さず、選手に任せたから、キャプテンやマネジャー(主務)の責任はそれだけ大変になった。
 前年の全国優勝メンバーから7人が抜けた後、5年生が10人、4年生が3人でチームを編成し、経験不足を補うために関西大学主催の中学大会に出場して優勝した。8月初旬の全国大会兵庫予選は、1、2回戦は各9−0、準決勝の兵庫師範(御影と姫路が合併した)は4−2で退けた。決勝は1−1の後、タイムアップ寸前に兄・太郎の25メートルドリブルシュートで、やっと灘中を下した。
 8月25日からの全国中等学校蹴球選手権(現・全国高校選手権)の前に、4年生のセンターフォワードが負傷し、前年の優勝メンバーのハーフバック芦田が体調を崩し、マネジャーのノリさん(則武謙)がセンターフォワードを務めることになり、練習の流れを統制する笛は、サブマネジャーの私の手に――。
 春休み、夏休みの間は、各大学にいるOBたちが校庭にやってきて練習を手伝い、試合の相手にもなってくれる。社会人も、土、日に、時には会社を休んでくれる先輩もいた。1チーム半から2チーム分、昭和5年の極東大会、昭和11年のベルリン五輪といった日本代表、そしてそれより若い代表候補の顔がずらりと並んでいた。
 そういうバリバリの実力者から見れば、練習が手ぬるく見えることもある。熱心な指導が選手たちのオーバーワークとなってしまうこともあった。
 甲子園南運動場での全国大会は、1回戦でまず愛知商業と延長の大苦戦、翌日、8月26日の2回戦では札幌師範に2−3で敗れてしまったのだ。


広島一中と聖峰中

 朝鮮地区代表が授業開始(8月22日)との関係で棄権したため、15チームで行なわれ、優勝は広島一中、俊足の左ウィング藤井をはじめ、前年の準決勝進出メンバーの9人がそのまま残っていて、一段上の力があった。その相手となった聖峰中は、京都市にある学校で、朝鮮からの移住者の子弟のチーム、体力的にも技巧的にも、朝鮮地区代表に近い力を持っていた。
 2回戦で敗れ合宿を解散し自宅に戻った私は、準々決勝以降の試合を見るために甲子園へ通い、聖峰中の攻撃をしっかり防いだ広島一中が、藤井のドリブルでとどめともいうべき3点目(3−0)を決めるのを見た。


神宮大会優勝・天覧試合

 全国大会で不本意な結果に終わった兄・太郎に幸いしたのは、この年から明治神宮奉納大会が、明治神宮国民体育大会として規模が大きくなり、サッカーの中学の部が行なわれたことだった。
 秋風が吹き始めると全員の体調がよくなった。夏の激しい練習の効果が表れたのかもしれない。気迫のこもった練習が続いたから、10月4日までの兵庫予選は1回戦から準決勝まで、3試合がすべて7−0、決勝が5−0と圧勝した。続いて10月31日からの8地区代表による明治神宮大会は、1回戦で北海中学を6−0、準決勝で広島一中を3−2で倒し、決勝は明星商業を1−0で破った。
 この年は、師範と中学校を分けて優勝を決め、その勝者が天覧試合を行なった。軍服姿の昭和天皇に見ていただくための15分間の特別試合だったが、広島師範を相手に1−0で勝った。
 竹腰重丸さんは「神戸一中がゴールしたおかげで、陛下へ得点の説明をするのが楽だった」と話した。
 兄と、このときの二人の仲間は、大戦直後に再び天覧試合を経験することになる。


(週刊サッカーマガジン2000年7月26日号)

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