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番外編 2001J開幕2週間 横浜と高知での喜び

1888年以来のインターポート

 2001年のJリーグ第1戦は横浜へ、第2戦は高知へ出かけ、ヴィッセル神戸が横浜F・マリノスを、コンサドーレ札幌が柏レイソルを破るのを見た。
 横浜では、日本で最も古い定期戦YC&AC(横浜カントリー&アスレチッククラブ)対KR&AC(神戸レガッタ&アスレチッククラブ)を3月10日、21世紀のJ開幕当日に横浜国際競技場で行なう、という企画があって、それにつられての東上。
 1888年以来、3世紀にわたり伝統のインターポート(港対抗戦)104試合目の場内解説は、テレビ界の大ベテラン金子勝彦さんのリードで、とても楽しい1時間だった。
 YC&ACが勝って43勝(20引き分け、41敗)となったが、この企画の立案者M氏は1982年のスペイン・ワールドカップのときにバレンシアへの車中で出会ったことがある。そのころから、世界のサッカーを見てきたMさんの蓄積が生んだユニークな発想だった。
 もう一つ、この日うれしかったのは、神戸の延長Vゴール勝ち。Jへの参画の遅れで伸び悩んだ神戸が、川勝良一監督によってチームの土台づくりが少しずつ固まり、今年はメンバーの大きな変動の後に守りの安定が増したところが頼もしい。
 いいフォームで正確にボールを蹴るカズという立派な手本が加わったことは、チーム全体にも、育成にかかわる神戸のコーチたちにも大きなプラスになるはずだ。


西の高知での大熱戦

 高知・春野へ飛んだのは、開幕日に大阪を離れたために見られなかった岡田武史監督とそのチームのため。ちょうど札幌の熱烈な支持者のKさん(連載48回参照)の誘いもあった。この時期の札幌は雪などのために試合は不可能。札幌のキャンプ地である高知を第2節のホームゲームの会場に選んだのだが、せっかくの試合も雨――例によって国体のために作られた“全国一律タイプ”だから、一般観客は濡れながらの観戦、声援となった。その雨のために水たまりの生じたグラウンドは柏の技術優位をつぶし、札幌のひたむきさと徹底した戦術に味方した。
“強い”ということになっていた柏に、一人ひとりのボールの奪い合いで粘り強くからむ札幌の選手たち。はるばる北海道から駆けつけ、赤のコートを着たサポーターは声を上げ、キャンプで親近感を持つ一般観客も引き付けられて場内は熱気を帯び、スタジアムへの私の不満も少しずつ消えてゆくからサッカーは面白い。そしてブラジル人ウィルの左足が二つのゴールを生む。
 1点目は右からのクロスから、2点目は相手のロングキックを奪ったヘディングから、どれも見事だった。特に2点目は相手側25メートルのFKをGK南がキックしたのを、ボールの勢いを見てボランチのビジュがいいスタートを切って素晴らしいジャンプで前方へ送り、ウィルが戻りながらバックワード・ヘディング。播戸が突進し相手DFともつれ、倒れてもなおキープして、走り上がるウィルにパス、これをウィルが決めた。相手のロングボールを狙ったビジュのヘッド、その落下点へ入るウィルの動きと播戸のスタートは、チームの“気合”がそのままスタンドへ伝わるもの。
 G大阪でも見ていた播戸のプレーの特色と気性の強さは、札幌で一段と成長したように見えた。


世界的彫刻家と44歳の監督と

 Kさんが私を誘った狙いは、石の彫刻で世界に名高い流政之(ながれ・まさゆき)氏に試合を見てもらい、彼の共通の仲間である人気監督と大彫刻家を引き合わせること。そこへ双方の友人である私にも、ということだった。
 1歳年長で、いまなお創作意欲の衰えない流さんは、試合を見ながら何やら紙片に描いていた。夜、Kさんと4人で食事をしながら、大戦後すぐに知り合った彫刻家と、70年代にヒョロリとした中学生だった岡ちゃんのそれぞれの成長をあらためて思った。そういえば、私と彫刻家を結びつけた兄・太郎が中学5年生のときに全国大会で優勝候補といわれながら2回戦で敗れた相手は、札幌師範――北海道のチームだった。
 サッカーは、まことに不思議な縁(えにし)を結ぶもの。
 すでに世界に名をなした彼から、これから世界に向かう44歳が何を受け取るだろうか――。
 監督のことを彫刻家は「自分のイメージ通りだった」と言ったが…。


(週刊サッカーマガジン2001年4月11日号)

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