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世界の“常識”を求めて(12)

コパ・デ・オロの話

 1980年12月29日、私の56歳の誕生日は、東へ向かう飛行機の中だった。ウルグアイのモンテビデオで開催されるワールドカップ50周年記念の「コパ・デ・オロ」を取材するためだった。
 これは、1930年第1回大会の開催国であったウルグアイが提唱して、78年11月にFIFAの会議で承認されたものだった。スペイン語で“黄金(オロ)のカップ(コパ)”と名付け、これまで11回の大会に優勝した6ヶ国の代表チームを発祥の地「センテナリオ競技場」に集結させた。
 ウルグアイ(第1、4回)、イタリア(第2、3回)、西ドイツ(第5、10回)、ブラジル(第6、7、9回)、イングランド(第8回)、アルゼンチン(第11回)のうち、イングランドが国内の日程との関係で参加できないために、74、78年の両大会で2位となったオランダが代わって出場することになった。
 78年のワールドカップ・アルゼンチン大会を取材したときに、モンテビデオも訪れる計画だった。しかし、天候(霧の発生)のために予定した日に飛行機が飛ばずに見送ったことがあった。ワールドカップの歴史と、現在のトップクラス6ヶ国の代表を見られるという魅力を抑えることができずに、80歳を越えた母親を一人家に残して出かけた。


驚きの連続の2週間

 80年12月30日から81年1月10日までの大会は、6チームがA、Bの2組に分かれて総当りのリーグ戦を行ない、各組1位が決勝に進むという方式だった。

▽A組:ウルグアイ、イタリア、オランダ
▽B組:ブラジル、アルゼンチン、西ドイツ

 大会前は、78年の優勝メンバーにマラドーナを加えたアルゼンチンと、80年欧州チャンピオンの西ドイツという2チームに期待が集まった。
 しかし、予選リーグのB組では、テレ・サンターナが新しく作ったニューモデルのブラジルが、アルゼンチンを2−1、西ドイツを4−1で破り、調子が悪いイタリアとオランダを抑えてA組を勝ちあがってきたウルグアイと決勝で顔を合わせることに。しかし惜しくもブラジルは1−2でウルグアイに敗れた。
 ウルグアイは、建国100年を記念して作ったセンテナリオ競技場で、50年後にも輝いた。30年前のマラカナンでの“王国”に対する勝利を再現したのだから、その夜のモンテビデオが、お祭り騒ぎになっていたことは言うまでもない。
 この年の2月に東京で行なわれた第1回トヨタカップで、ウルグアイのナシオナル・モンテビデオが、イングランドのノッティンガム・フォレストを1−0で破ったが、この決勝ゴールを決めたビクトリーノが、1月10日の決勝の殊勲者でもあった。
 私は、サッカーマガジン誌上に10回連載で「オーパ・ラプラタ(ウルグアイ・コパ・デ・オロの旅)」として紀行を書いた。そこでは、アルゼンチン代表のメノッティ監督と彼の弟子たちの練習を間近に眺めたことや、西ドイツの宿舎で、デアバル監督と遅くまで話し込んだこと。そして、ロスベデスの練習場で、マテ茶を飲みながら、ナシオナルのムヒカ監督を取材したことを書いた。
 私にとっては、テレ・サンターナのブラジル代表、80年代における魅力あるチームの原形を見ることができた、まことに得がたい2週間だった。


大阪女子マラソンの計画

 サッカーのもう一つ大切な仕事でもある神戸FCは、社団法人となって10年を経ていた。
 法人スポーツクラブの運営は、当事者の苦労はあっても、まずまず安定していた。その運営の先頭に立ってきた北川貞義さんと加藤正信さんの二人が、実務から退き名誉副会長となった。クラブの将来を考えての世代交代というのだが、70歳の加藤ドクターには、まだまだ自ら手がけたいことが多いようだった。
 本来なら、私自身がもう少しクラブに気配りをしなくてはいけない時期なのだが、会社の仕事に、また一つ新しいものが加わって、時間をとられることになっていた。女子マラソンを大阪で開催する計画が出てきたのだった。
 大阪は1962年に交通事情のために男子の毎日マラソンが琵琶湖へ移った。そして、高校駅伝も66年に離れて京都で行なわれている。ロードレースの全くなくなってしまったところで、しかも層の薄い女子のマラソンというのである。


1980年(昭和55年)の出来事
◎1月 天皇杯決勝でフジタが三菱を2−1で破り初優勝
◎3月 クアラルンプールでのモスクワ五輪予選で日本代表敗退(3勝1分け1敗)
◎6月 8強集結の欧州選手権で西ドイツが優勝
◎7月 モスクワ・オリンピック開幕
     日本は、ソ連のアフガニスタンへの軍事介入に抗議して米国、西ドイツらとともに不参加
     サッカーはチェコが決勝で東ドイツを破って初優勝
◇9月 イラン・イラク戦争始まる
◎12月 バルセロナでのユニセフチャリティマッチに釜本邦茂が世界選抜に選ばれ出場
※ ◎サッカー、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2002年2月13日号)

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