賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >世界の“常識”を求めて(18)

世界の“常識”を求めて(18)

ドラゴンボートの大会

 スポーツ新聞づくりから、企画会社へと仕事の内容が変わって5年目。1988年には、また新しいイベント企画に取り組むことになった。
 88年の7月に「天神祭奉納・日本ドラゴンカヌー選手権」を開催したのは、陸のスポーツだけでなく、水のスポーツで国際性のあるものを創設したいと考えたからだった。
 中国から東南アジア一帯で盛んに行なわれているカヌー競技。それも多人数の漕ぎ手が、龍(ドラゴン)の頭を船首につけて競漕する催しは、香港をはじめ、シンガポールやベナンなどで一つの大きな観光行事になっている。
 日本でも長崎や相生(あいおい)でペーロン競争として長い歴史を持つ市民の楽しみとなっていて、沖縄や熊本や鹿児島などでも、それぞれ土地に根付いた海の行事として続けられている。
 こうした、「手漕ぎ」舟の競争と、世界共通のルールに則した「国際スポーツ」のイベントをしてみようと、大阪の「大川」(おおかわ)が流れる市の中心地で、天神祭のイベントの一つとして開催しようというのだった。天満宮のバックアップ、住友VISAの応援を得て、開催にこぎつけた。
 88年6月に、西ドイツで行なわれたサッカーの欧州選手権は、このドラゴン大会開催のために取材に出かけることができず、おかげで、フリット、ファンバステン、ライカールトたちの上り坂の時期のオレンジを見られなかったのは残念だったが…。


オリンピック大会の変革

 日本サッカーは、変革へ向かっていた。日本リーグでは、ヤマハが新たに優勝チームに加わり、高校選手権では国見がタイトルを獲得して、とうとう九州からチャンピオンが生まれた。
 お隣の韓国で開催されたオリンピックに出場できなかったのは大きな痛手だったが、この大会ではブラジルのロマーリオや西ドイツのクリンスマンといった南米、西ヨーロッパの若いプロフェッショナルが働き、テニスではシュティフィー・グラフのようなトッププロが参加して、オリンピックが完全に変わろうとしていることを示した。
 オリンピックがアマチュアの規則を外せば、そのオリンピック参加が原点となっていた日本の多くのスポーツ人の考えは変わる。
 この年の3月に設けられた日本リーグ活性化委員会が、スペシャル・リーグというプロリーグの構想を論じ合っても、だれも不思議と思わなくなる。同委員会の提案を受けて次の89年6月に日本協会は「プロリーグ検討委員会」を発足。92年のリーグスタートを目指すことになる。
 米国の不況をよそに、日本の経済は活気を保っていた。一部の実力企業は別として、ほとんどのところが、地価上昇、株価上昇という資産益によって支えられているという不安もある。そういったなかで、プロ化もまた「レース・アゲインスト・タイム」であったかもしれない。


オー・レオ・レオ・レー

 89年1月に昭和天皇が亡くなられた。私たちの世代にとっては、戦争と、それによる荒廃のなかで、ともに苦しみ、戦った天皇だった。
 内閣が一致して解散に踏み切るときには反対できない立場にあった天皇は、大戦末期の御前会議で降伏か戦争継続かの意見がまとまらなかったとき、初めて自分の意志で降伏を選択した。あの決断がなければ日本のいまの姿はなかっただろう。
 昭和という時代が新しい平成という年号によって去っていく感慨にふける間もなく、秋にはベルリンの壁が崩壊して、ヨーロッパは一気に新しい時代に入る。
 12月にルーマニアのチャウシェスク政府が倒れたとき、それを祝って広場に集まった市民たちが「オー・レオ・レオ・レオ・レー」と歌うのをテレビ画面で知る。スペインやイタリアのサッカー場での「オレ」とはまた違ったメロディーだったが、試合場での叫びが、そのまま政権奪取の喜びとなるところに、あらためてヨーロッパのサッカーの広がりと深さを感じた。


1988年(昭和63年)の出来事
◎1月 第67回天皇杯は読売クラブが2年連続3度目の優勝
    高校選手権は前年2位の国見が初優勝
◎3月 日本リーグ活性化委員会が設けられる
◇3月 青函トンネルのJR線開通
◎5月 87−88日本リーグはヤマハが初優勝
◇6月 リクルート事件
◎6月 88年欧州選手権でオランダが初優勝
◎9月 第24回ソウル・オリンピックのサッカーでソ連が優勝。ブラジル銀、ドイツ胴
◇9月 同大会で、陸上男子100mでベン・ジョンソン(カナダ)が薬物使用で金メダル剥奪
※ ◎サッカー、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2002年3月27日号)

↑ このページの先頭に戻る