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世界の“常識”を求めて(19)

京都から芦屋へ

 年号が平成と変わった次の年、1990年(平成2年)2月に、私は京都から芦屋へ移り住んだ。
 1971年に阪神間の武庫之荘から長岡京へ引っ越してから、京都での生活も足掛け20年になっていた。京都生まれの母も他界し、近くに住む妹・清子も89年に去って古都で暮らす理由はなくなっていた。私自身も65歳。大阪サンスポ企画の社長を退く年齢になっていた。
 どういう形で残りの人生を送るにせよ、京都を離れ、生まれ育った神戸の近くで暮らすことになった。
 近くに戻ってきた、となれば、神戸フットボールクラブの仕事が増えるのは当然。折りしも土地バブル絶頂期で、世間の景気は良いのだが、サッカー界は日本代表の“出ると負け”が響いて停滞ムード。それが反映して、クラブ経営も緊縮型となっていた。


神戸FCの創設20周年
 その緊縮は人件費に向けられ、コーチや職員の給与は抑えられたまま。世間一般が好景気なのに、これではクラブの士気は上がらない。
 そこで、毎年夏に行なってきたジュニアのサッカーの大会に、スポンサーをつけ、テレビ放映をしてもう一度、神戸FCとそのイベントを宣伝することにした。
 幸い共鳴してくれる企業があって、90年夏の大会はこれまでと違った規模で開催し、参加チームも運営する人たちも勢いづいた。
 こうした企業の協賛費をあてにするやり方は、必ずしも長続きするとは限らないが、少なくとも停滞ムードのまま日を遇するよりは、自分たちの催しを少しでもにぎやかに、そしてレベルの高いものにする工夫と努力をした、という点では成功したと言えた。
 専務理事という名で神戸FCに関わったのは、この年と次の年の2年間だけだが、ちょうど1970年にクラブが法人格となって、20周年にあたったことから、91年1月15日には神戸オリエンタル・ホテルで、記念式とパーティーを開くことができたのも幸いだった。
 もっとも、その20周年を待たず、加藤正信ドクターが、90年2月1日に亡くなったのは、まことに残念なことだった。私自身が阪神間への移転を1月に決めながらも、ドクターへの報告は引越しが終わってからと考えていたのだが、結局果たせないままだった。


兄・太郎とのサッカー談義

 若いころから働いた新聞社の組織を離れて、一人で歩き出した1990年、いわば第2の人生のスタートの年には、また新たな悲しみがあった。
 3月16日に67歳の兄、太郎が向こう岸へ渡った。60歳を越えて、なお自分の会社のチームで、それも岡山県リーグの3部から2部に上がり、公式戦でプレーしていた。
「2部はさすがにしんどいが、僕がいないと点が取れないからね」というほど元気な体だけに、癌細胞も強かったのだろう。89年の冬の治療が効いて、その年の夏には元気になったが、年を越してから悪化した。そう、89年8月7日にマンチェスター・ユナイテッドと日本代表のゲームをテレビで見たあとで、私と電話でサッカー談義をした。
 マンチェスター・ユナイテッドのように、常に攻撃を志向する動きを日本代表がなぜしないのか――。
 ミスを恐れて動きが鈍っているという私に、いまの日本代表は技術が上がってきている。だから、より高度なサッカーへの移行をためらってはいけない。指導者は失敗を恐れず、もっと勇気を出せ、と繰り返していた。
 そして11月9日には、大谷四郎氏の訃報。私には記者稼業の先輩であると同時に、サッカー界改革の理論的支柱だった。
 身辺の大変動のなかではあったが、90年ワールドカップ・イタリア大会の取材に出かけることができた。オランダの不調やマラドーナのケガなど不満もあったが、優勝した西ドイツのマテウス、クリンスマンらの中心選手が、セリエAで磨いた美しいフォームと高い技術を見せるのが面白かった。
 日本からの何千人もの観戦ツアーと、驚くべき取材記者の増加は、ワールドカップへの関心の高まりを示していた。
 もっとも、初見参の記者の多くは、イタリアのスタジアムや施設に驚き、日本でのワールドカップ開催に悲観的だったのだが…。


1990年(平成2年)の出来事
◎1月 天皇杯決勝では、日産がヤマハを3−2で破って、2年連続3回目の優勝
    第67回高校選手権で愛媛の南宇和が初優勝(四国チームは初)
◎6月 ワールドカップ・イタリア大会(6月8日〜7月8日)で、西ドイツが優勝
◇8月 イラクがクウェートを侵略
◎9月 ラモスとカズを加えた日本代表は、北京のアジア大会でD組1勝1敗
◇10月 西ドイツが東ドイツを編入し、ドイツ統一達成
※ ◎サッカー、◇社会情勢


(週刊サッカーマガジン2002年4月3日号)

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