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東北初の高校チャンピオンを育てた剣道の達人 内山真(下)

内山流サッカー教育

 1958年(昭和33年)1月、西宮球技場で行なわれた第36回全国高校選手権大会で秋田市立秋田商業高校が初優勝、大会40年史上、初めて東北地方に高校サッカー・ナンバーワンのタイトルを持ち帰った。
 決勝の前日、西宮の宿舎に内山真監督を訪ねたとき、まず旅館の玄関に現れたのは丸坊主のサッカー部員。きちんと正座をしてあいさつし、当方の用件を聞いて、先生に取り次いだ。
 内山さんの話を聞いている間に、お茶を持ってきたのもサッカー部員だった。
「親から養ってもらっている間は、人間として半人前。お客様然とした態度をしてはいけない。だから試合のために遠征しても、お前たちはお客様ではない。人生を学ばせてもらうという謙虚な気持ちで、旅館の方々のお手伝いをしろ」というのが内山さんの方針。部員たちは床上げや部屋の掃除、お膳を並べることもすべて自分たちの手で行なっていた。
 彼らの試合ぶりにも、しつけのよさが表れていた。相手のファウルにも怒ったり、怒鳴ったりせず黙々と耐え、粘り強く、ひたむきにプレーしていた。
 45年に大戦が終結してから10余年が経っていた。日本の古いものはすべて悪いものとする風潮となり、スポーツでも、心や気持ちについて語ることは少なくなっていた。そんな中で、秋田商高、創部10年の幼いサッカー部には、日本の伝統的な修行という感覚が残っていた。
 それは東北・秋田という土地柄もあったはずだが、内山流の教育が大きかったと思う。


剣聖・高野佐三郎の薫陶

 1914年(大正3年)7月8日生まれの内山真さんは、このとき43歳。信州生まれで、旧制・須坂中学に入学してから剣道に励み、32年(昭和7年)に卒業すると、東京・神田の修道学院に入って、高野佐三郎道場の内弟子となった。2年後に剣道教師となり、東京の専修商業(旧制)や東京府立第二中などで指導し、40年には秋田商高と秋田鉱山専門学校の剣道教師となった。
 ここから秋田での生活が始まった。高野道場での修業で、剣道の段位は36年に既に五段となっていた。
 剣道一筋の内山さんがサッカーと取り組むのは大戦後、47年の秋田商高サッカー部創設からだが、10年で全国大会優勝に達する――それも秋田というサッカー経験者の少ない街で――までの努力は大変だったろうと推察できる。
 その毎日の苦労を支えるもののなかに、故静子夫人の陰の力をはじめ、若いうちに存分に剣道に打ち込んできたことが、内山さんの自信となっていたに違いない。特に剣豪・高野佐三郎道場の内弟子となって修業し、当時すでに喜寿に達していた高野先生の薫陶(くんとう)を受けたことが、大きな心のよりどころになっていたはずだ。
 高野佐三郎さん(故人、1862〜1950年)については、門外漢の私は知ることは少ないが、小学生のころ、『少年倶楽部』などの子供向き雑誌で“秩父の小天狗”時代のエピソードを読んで、親しい名だった。
 1862年(文久2年)、幕末のペリーの黒船来航から10年余の後に生まれたこの人は、祖父の高野苗正に小野派一刀流を学び、5歳ごろから近隣で知られていた。1879(明治12年)に秩父から東京へ出て、山岡鉄舟について剣を学び、後に警察の武術教授を務めながら、自身の明信館道場を経営した。内山さんが内弟子となったのは、明信館が東京・九段下から神田今川小路に移って、修道学院と名を変えてからのことだった。高野先生は大日本武徳会が全国の剣道形を統一制定するための主査委員を務め、各流派の剣術から剣道への転換期に大きな足跡を残した。
 この大先生が全国巡回指導で神戸へ来たときに、私の2年上の川口尭(たかし)さんという剣道部の先輩が見学し、“剣聖”を見た興奮を語ったのが今も印象に残っている。五段クラスの元気者や実力者との立ち合いで、左片手上段ですーっと立っている高野先生にすきはなく、打ち込もうとして、一瞬早く面を取られるさまや、組み打ちを臨んで投げられ、首を押さえられてしまう様子などを語り、私たちは熱中して聞き入ったものだ。川口さんの話術のうまさもあっただろうが、当時すでに75歳を超えているはずの高野先生を一度も見ていないのに、その神韻縹渺(しんいんひょうびょう)の趣きは長く頭に残ったものだ。


サッカー部長、校長、道場の主

 18歳から20歳までの伸び盛り、多感な時期に、高野先生の道場で学んだことが、後の内山真を作るうえで大きかったと想像する。
 西宮の宿舎で「サッカーは素人で、賀川さんたちが作っている雑誌『キックオフ』の技術論などが頼りです」などの会話の中で、「もともとは剣道で、高野佐三郎先生に習いました」とその名が出てきたところにも、内山さんの大先輩への傾倒が見て取れた。
 サッカー部長として秋田商高を東北地方でのトップチームに育て上げ、後輩たちの努力もあって、日本代表も送り出すようになった後、内山さんは秋田商高の校長となる。
 やがて1975年(昭和50年)、定年退職すると、今度は退職金を注ぎ込んで雄信館内山道場を建て、そこで子供たちに剣道を教えることになる。
 雄信館の“雄”は秋田商高同窓会の名称“雄水会”――雄物川の“雄”でもある――そして“信”は生まれ故郷・信州の“信”を取ったという。
 雄信館へ通う少年たちの数は多く、全国大会で活躍する少年剣士も増えてきている。
 昨年、雄信館内山道場は開館30周年を迎え、内山さんの卒寿(90歳)のお祝いを兼ねての記念式典が行なわれた。
 92年(平成4年)には『内山真 サッカー剣道五十年』と題した自伝を出版した。


若い人への全人教育

 そのあとがきで内山さんはこう記している。

「昭和8年、卒業そこそこに、東京神田・剣聖高野佐三郎先生の道場、修道館に内弟子として入門し、剣道の修行が始まった。身体が小さく素質に恵まれない私は、“人並みの稽古ではだめだ”と自覚、心身の限界まで稽古を重ね、地獄の苦しみの中から“礼節”“一生懸命取り組む姿勢”“積み重ねの努力”“思いやりの心”などをつかみ得たと思う。
 恩師高野先生は教えの中で、剣道の指導者は強くなくてもいい、教わる人達より『紙一重の力』があればいいと申された。
 スポーツも勉強もすべて同じ。要は師弟ともに真剣に取り組む心構えが大切と思う。」

 日本サッカーは多くの先人の努力の積み重ねや、各国との交流、プレーヤーの努力によって今日の隆盛の姿になった。これをなお、押し進めるためには、なんといっても若いプレーヤーの育成が大切である。内山真八段が示した秋田商高の“全人教育”(自分の全人格をぶつけて生徒と接する)は多くの指導者にとっても、大きな力となるだろう。


内山真・略歴

1914年(大正3年) 7月8日、長野市に生まれる。
1928年(昭和3年) 旧制・須坂中学に入学、剣道を始める。
1932年(昭和7年) 同校卒業。東京・神田の修道学院(高野佐三郎剣道場)に入門、内弟子として修行を積む。
1934年(昭和9年) 私立専修商業(旧制)の剣道教師に。
1936年(昭和11年) 剣道五段を允許(いんきょ)。
1937年(昭和12年) 東京府立第二中学(現・都立立川高校)剣道教師に。
1940年(昭和15年) 1月、秋田市立商業学校(現・秋田市立秋田商業高校)ならびに秋田鉱山専門学校(現・秋田大学)の剣道教師に。
1943年(昭和18年) 召集、陸軍の習志野戦車隊に。
1945年(昭和20年) 8月、終戦。学校体育から剣道は除外。
1947年(昭和22年) 秋田商業高校サッカー部創設、部長に。
1950年(昭和25年) 秋田商高サッカー部が県大会で優勝。
1952年(昭和27年) 東日本高校大会準優勝。翌年1月の第31回全国高校選手権大会に初出場。
1957年(昭和32年) 剣道七段を允許。
1958年(昭和33年) 1月の第36回全国高校選手権大会で、東北地方のチームとして初優勝。創部10周年、連続出場6回目、内山真43歳だった。
1967年(昭和42年) 第45回全国高校選手権大会で2度目の優勝。
1968年(昭和43年) 高校総体で初優勝。
1969年(昭和44年) 秋田商高校長に就任。この年、サッカー部合宿所完成。
1973年(昭和48年) 剣道八段を允許。
1975年(昭和50年) 秋田商高校長を退職。雄信館内山道場を開設。
1980年(昭和55年) 秋田県サッカー協会会長に就任。剣道範士の称号を受ける。
1995年(平成7年) 秋田県サッカー協会名誉会長に。現在に至る。


★SOCCER COLUMN

試合の前の作法
 元日本サッカー協会副会長の田辺五兵衛さん(故人、1908〜72年)の随筆『烏球亭雑話』にこういう話がある。

◇作法◇
 試合開始に先立って両チームが並んでスタンドにあいさつする図は外国で見られる。
 誰も何の疑問も持たずに両チームがセンターサークルのところに向かい合って並び両軍の主将が進み出て、礼を行なってトスをするというのは完全に日本式作法である。
 これは武術の仕合を始めるときの習慣が知らず、知らずに蹴球いや、すべての日本のスポーツの作法となったのである。
 こういう作法はあってよろしい。
 これを見て、その真の意味を知ったある英国人が、これは尊敬すべき習慣である。学ぶべきものであるといった。

 1960年代のJFA(日本サッカー協会)機関誌に掲載された中の一つだが、現在はこの習慣がなくなっている。JFAではサッカーのフェアプレーを押し進める際に、「相手への尊敬を忘れないこと」をその一つに掲げているが、剣道や柔道からきた日本式作法も考えるべき一つかもしれない。

サッカー人と剣道
 1930年(昭和5年)の極東大会の日本代表だった市橋時蔵(故人)は、慶応大でウイングとして活躍した。神戸一中の4年生まで剣道部にいて、サッカーに転向したが、少年期からボールを蹴っていて、ドリブルが上手だった。
 剣道に打ち込んだだけあって姿勢が美しく、ドリブルの際に、相手との間合(距離)を見極めるのがうまく、仲間は“サッカーに剣道の間合の感覚を持ち込んだ男”と言っていた。
 神戸大学の文学部長でドイツ語の先生、サッカー部長であった加藤一郎さん(故人)は90歳を超えるまで元気だったが、少年期に道場に通ってみっちり剣道の稽古をしたという。足を悪くして、杖をつくようになった晩年でも、背筋をシャンと伸ばした姿が美しく、神戸のバーのママたちからとても人気があった。
 名ストライカー、釜本邦茂の父、正作さん(故人)も警察官時代に剣道に打ち込んだ。自分の経験から絶対といえる型を持てと、邦茂選手にアドバイスしていた。
 メキシコ五輪得点王、日本の生んだスーパー・ストライカーにも日本古来の武道がかかわっていたといえる。


(月刊グラン2005年4月号 No.133)

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