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日本代表を世界基準に向けさせた初の外国人監督 ハンス・オフト(下)

川淵三郎チェアマンの決断

 1993年5月15日、国立競技場でのヴェルディ対マリノス戦でJリーグが開幕。日本サッカーはプロフェッショナルの全国リーグへと踏み出した。川淵三郎チェアマン(現・日本サッカー協会キャプテン)の下での綿密な計画と、まさにこのときというタイミングでのスタートだった。
 早くから世界中に広まったサッカーでは、否応なく、オリンピックやワールドカップやアジアでのタイトルマッチが毎年のように展開される。それに勝つためにもプロ化が必要だったが、もし代表チームがこれまでのように国際舞台に出ると負けを繰り返せば、プロリーグそのものの人気も低下するだろう。
 もちろん、Jリーグは代表強化のためばかりでなく、また代表の勝敗がただちに影響するほどの弱い基盤であってはならないが、トップリーグの繁栄と代表チームの好成績が望ましいかたちであることはいうまでもない。そのためにも、代表チームの監督選びは日本サッカー協会(JFA)にとっても、最も重要な仕事の一つでもある。
 この重要なポイントに、ハンス・オフトを選んだのが、当時、Jリーグのチェアマンであり、JFAの強化本部長でもあった川淵三郎。プロフェッショナルの集団となる日本代表の監督には、外国人のプロがいいとの決断だった。
 その狙いは成功して、Jの開幕直前、4〜5月に行なわれたワールドカップ・アジア1次予選で、日本はFグループで7勝1分け無敗でトップになり、アジア最終予選に進んだ。


Jブームのなかでの平静さ

 私がオフト監督とのインタビューの時間を持ったのは、この年5月29日、国立競技場でのJリーグの試合の前のひとときだった。
 開幕から2週間、テレビや新聞の華やかな報道によって、サッカー界全体が浮き浮きしていたなかで、オフトは穏やかで冷静に、自分のやってきたこと、次の計画を静かに語った。
「オフト・マジックなどとメディアは言うが、そのようなものはない。自分は基本を重視し、それを徹底することだけ。選手たちの個性を見て、それにあった役割を考え、彼らが連動してゆけるようにしてきただけだ。もちろん、いまのままで、いいわけはない。プレーヤーの一人一人が、リーグのなかで自分を磨き、レベルアップしてほしい」
 話を聞きながら、前年のアジアカップで優勝した後での記者会見で、オフトが今後の目標を尋ねられ手「選手一人一人のレベルアップ」と答え、さらに何をレベルアップするのかと問われて「すべての技術、そして体力も」と応じたことを思い出した。
 オフトは、ヨーロッパで常に最高のプレーヤーを生み続けているオランダのコーチであり、指導者を教える指導者でもあった。
 その高いレベルのオランダから見れば、ようやくプロ化に踏み切り、これからという日本代表チームの一人一人についても、まだまだ望むところが多かったに違いない。
 アジアカップの優勝も、すべて僅差の試合だった。92年10月30日から11月8日の大会のグループリーグは1勝2分け(得点2、失点1)、準決勝の対中国は3−2、決勝の対サウジアラビアは1−0だった。
 ワールドカップのアジア1次予選でも、タイ、バングラデシュ、スリランカ、UAEを相手にした各2回戦で、タイには苦戦の末、2試合とも1−0、UAEには2−0、1−1だった。
 もちろん、これまでは負けるか引き分けだった相手に、勝つか引き分けるようになったのは、大進歩といえた。ただし、それはチームワークの勝利であり、困難でも近代サッカーのやり方に挑戦してきた成果だった。中盤をコンパクトにし、互いの運動と連係させて、プレッシングされる選手を助けることの大切さを、選手たちが知ったからだという。


基本重視を貫く

 メキシコ五輪での銅メダル以後、長い間、日本代表はオリンピックもワールドカップもアジア予選の域を出られなかった。
 私はこの70年代後半から90年代初期までを“不思議な20年”と呼んでいる。
 高校を一とする少年期のプレーヤーに対する、熱心で行き届いた指導があり、ドイツやオランダといった一流国から見れば劣りはしても、サッカー環境も昔に比べて大幅に改善されているのに、日本代表は勝てなくなっていた。選手たちは懸命にプレーしているのに――である。
 オフトは、その謎解きをごくシンプルにやってのけた。そう、基本重視である。プレーヤーに、基本を知っているだけではだめで、完璧にプレーすることを求め、その練習をしたことである。もちろん、そこにデットマール・クラマーと同じようにプロフェッショナルとしての指導技術はあっただろうし、独自の人懐っこい人柄も生きたのかもしれない。
 いずれにせよ、彼は日本代表チーム監督として、日本人にしばらく途絶えていた夢を味わわせた。


ドーハ最終日の悪夢

 アメリカ・ワールドカップのアジア最終予選は1993年10月15日から始まった。カタールの首都、ドーハから送られてくる映像によって、日本にいながらにして予選の模様を見ることができるようになった。
 日本、韓国、北朝鮮、イラン、イラク、サウジアラビアの6ヶ国による総当りリーグで、目指す出場枠は「2」だった。
 日本の第1戦は対サウジアラビア。守備を固めて、とりあえず初戦を守り抜こうとする相手に対して日本は攻勢を続けたが、福田正博のボレーシュートとGKの妙技で防がれ、結局、0−0で終わった。
 18日の第2戦は対イラン。アジアカップでは1−0で勝ったが、もともと体格が良くて、粘着力あるプレーをする彼らは、日本には厄介な相手である。前半の終わり近くに右サイドのFKからゴールを奪われ0−1、後半に日本は長谷川健太や中山雅史たち攻撃プレーヤーを投入して追いつこうとしたが、カウンターで2点目を失い、中山が1点を返しただけだった。
 こういう実力接近のリーグでの1敗は響く。
 21日の第3戦(対北朝鮮)では、まず勝点を取らなければならない。その重要な試合でカズ(三浦知良)が働いた。ラモスのクロスをヘッドで先制ゴールし、中山のゴールを生み出し、3点目は再び自らの右足ボレーで3−0とした。
 25日の韓国との戦いもカズのゴールで1−0で勝った。ラモスを守備的MFに置いたのが成功した。
 残り1試合を前に、日本とサウジアラビアが勝点5、韓国、イラク、イランが勝点4、北朝鮮が勝点2となっていた(このころは1勝が勝点2、引き分けが勝点1)。日本は勝てば代表になれるが、引き分ければ、勝点6となり、得失点差が問題になる。
 28日、日本対イラク、サウジアラビア対イラン、韓国対北朝鮮の3試合が同時刻にスタートした。日本は5分に長谷川のシュートのリバウンドをカズがヘッドで決めてリードする。後半10分に同点となったが、24分に中山がラモスからのスルーパスを決めて、再び2−1とリードした。時間が刻々と過ぎ、ロスタイムに入る。あとわずか……というところで、イラクが右CKを後ろに戻し、そこからのクロスをヘディングで同点とした。
 今でも、私はこの悪夢のような場面を覚えている。相手ボールを奪った後、森保一がラモスにパスをする。ラモスはゆっくり持って、縦へ浮き球を蹴る。これを取られて、そこから相手の右サイドが攻める。右CKとなる。日本選手の目が、大時計に向けられているのが画面に映る。相手はCKを直接ゴールへ蹴らないで、後ろへ戻す。誰もアプローチしない。カズが遅ればせながらつめて、タックルに行く。待ってましたと、かわした相手は落ち着いてボールを押し出してゴール前へ蹴った。そこにはイラク人がいた。ヘディングのボールがゴールに吸い込まれ、GK松長成立が絶望的に手を伸ばした。2−2。
 別会場で北朝鮮を3−0で破った韓国が、イランに4−3で勝ったサウジアラビアとともにアジア代表になるという声を聞きながら、テレビの前の日本人はピッチに倒れこむ日本選手とともに涙した。
 この試合、前半を1−0で終わった後、ハーフタイムのロッカールームではイレブンが興奮してしまい、オフト監督も清雲栄純コーチも選手たちを平静にすることができなかったという。
 あと一歩のところでワールドカップ出場を逃し、選手たちには悔いの残るドーハの悲劇だったが、多くの日本人にとって、サッカーの国際試合のスリルを身近に感じたということでは、貴重な経験だった。
 オフトは日本代表の監督の席を去るが、この後も94〜96年にジュビロ磐田、98年に京都パープルサンガ、2002年〜03年に浦和レッドダイヤモンズの監督を務め、基本を指導し、それぞれのチームの基礎づくりの仕事をした。
“点睛(てんせい)”を欠きはしたが、日本代表が“龍”として飛躍するもとを築いたオフト監督と、彼とともに新しい息吹をもたらしたカズやラモス、柱谷哲二、高木琢也をはじめとするイレブンの働きを忘れるものはいない。


★SOCCER COLUMN

ダビッツの長いスピーチ
 オランダのサッカーは、彼らの優れた体格、体力に加えて、幼い時期からの理にかなったテクニックの練習で、高度な技術の持ち主を送り出している。
 そのオランダの優れたスポーツマンたちの見た目ではわからない特色は「理論的であること」――もともと理(ことわり)を重んじるところだが、理屈に合わないときには簡単に引き下がらない。
 あの小柄な大選手、ダビッツが若いときの記者会見で、「ライカールトが目標か」と聞かれて、「私はダビッツであって、ライカールトではない」とライカールトの指導を受けても、ダビッツはあくまでダビッツであることを、とうとうと英語で論じるのに驚いた。そういえば、クライフから代表チームのなかで試合に出られない選手に、その理由を説明することの大変さを聞かされたことがある。
 温和なオフトではあるが、自分の指導理念については譲ることはない。その強さが、ラモスやカズたちの個性派を一つにまとめた伏線かもしれない。


クラウン・プリンスのジョギング
 七つの海に商船隊を送り、大英帝国と商業を争ったオランダ人にとっては、外国語を習熟するのは、それほど難しいことではないらしい。1981年に私が大阪国際女子マラソンの創設にかかわったころ、最も早くこのマラソン大会の参加に反応してきたのが、オランダ陸上協会。役員たちはみな英語だけでなく、もう1、2ヶ国語を話し、秘書の女性は4ヶ国語に堪能で、彼女を通じて東欧諸国(ドイツ語とロシア語が使える)への働きかけもできた。
 このころ仲良くなったコーチの一人を何年か前に訪ねたら、彼らの自慢の“風車”などに案内してくれた後、「今日は4時から予定があるので失礼する」と言う。聞けば、皇太子とのジョギングの約束があるとのこと。約束していたホテルで別れると、彼は同じように半パンのクラウン・プリンスと海浜へ走っていった。


(月刊グラン2005年12月号 No.141)

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