賀川サッカーライブラリー Home > Nations > チリ > チリ・サッカー小史

チリ・サッカー小史

1850年
(1850年代)
イングランドのFA(フットボール・アソシエーション、1863年設立)誕生以前に、港町バルパライソの英国人学校でフットボールが行なわれていた。
もちろんFAによるルールの統一前だから、どの種目のフットボールであったかはともかく、フットボールがクリケットとともにプレーされていた。
1880年
(1880年代)
バルパライソとサンチアゴでは、FAルールのフットボール、つまりサッカーが行なわれるようになっていた。
1889年
最初のクラブ「Valparaiso Football Club」がデビッド・スコットによって創設された。
1892年
バルパライソ・クラブに続いて英国人たちのクラブが生まれた。マッケイ・サザーランド、イングリッシュ・ストッキング、ホール・スクール、ロジャーFCなど。
1893年
これらのクラブは、ほとんど英国人のクラブだったが、「マッケイ・アンド・サザーランド」クラブが英国人ばかりのバルパライソ・クラブと試合をするときに地元の人たちとの混成チームをつくった。結果は1−2で敗れたが、大きな刺激となり、この年、バルパライソ市対サンチアゴ市のインターシティ(都市対抗)が行なわれたときはチリ人のチームが結成された。
1895年
バルパライソとサンチアゴの9クラブが集まって「Football Association of Chile」(チリ・サッカー協会)設立。同時に公式試合も行なうようになった。アルゼンチンに次いで、2番目のFAだった。
1896年
協会設立からサンチアゴ市にもサッカーは普及し、最初のチリ人によるクラブ「サンチアゴ・レンジャーズ」が生まれた。次の年、北方のコキンボ、アントファガスタ、さらにその翌年にはもっと北のイキケに「イキケ・ワンダラーズFC」が生まれるなど全国的に広がった。
1898年
コキンボに「Assocciation Prouncial de Coquimbo」(コキンボFA)が設けられ、1900年代には各地域FAが相次いで誕生。
1910年
こうした地域の代表によるチリNo.1を決める選手権が大統領の名を冠し、「ウルトウニロ・アレサンドリ杯」として始まった。1933年にナショナル・リーグ(全国リーグ)が創設されるまでこの選手権は続けられ、親しまれた。
1916年
第1回南米選手権がブエノスアイレスで行なわれ、チリは1−1ブラジル、1−6アルゼンチン、0−4ウルグアイで最下位となった。
1920年
第4回南米選手権の開催国となったが、ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジルから1勝もできずに第1回大会以来、連続して4回、参加4チーム中4位だった。
1922年
ブラジルで開催された南米選手権で、チリは1勝もできずに最下位(5位)となった。この大会でチリの役員が問題を起こし、そのためFIFAから資格停止処分を受けた。その後、チリFAは協会を再編成し、バルパライソからサンチアゴへ本部を移すとともに名称も「Federacion de Futbal de Chile」(略称FFC)とした。
1926年
FIFAから復権を認められ、サンチアゴで南米選手権を開催。パラグアイに5−1、ボリビアに7−1で勝ち、大会初勝利を収めるとともに5ヶ国中3位となった。
1928年
アムステルダム・オリンピックに参加。長い旅のあとの欧州でのデビュー戦は、大会予選の対ポルトガル。2−4で敗退した。
1930年
ウルグアイのモンテビデオで開かれた第1回ワールドカップに参加し、1次リーグ1組で3−0メキシコ、1−0フランス、1−3アルゼンチンと2勝1敗。この組の2位となり、決勝へは進めなかった。
1933年
全国リーグがプロフェッショナルを認めて発足した。リーグ創設のメンバーは次の8クラブ。コロコロ、オーダクス・イタリアーノ、バドミントン、グリーン・クロス、モーニング・スター、マガリャニス(マジェラン)、サンチアゴ・ナシオナル、ウニオン・エスパニョーラ。サンチアゴのコロコロは1925年に設立され、David Arellanの指導のもとに積極的なゲームをし、リーグ創設時でサンチアゴの人気チームとなっていた。ただし、はじめ3年間の優勝チームはマガリャニスだった。
1935年
ペルーで開かれた南米選手権で参加4チーム中4位。2年後のアルゼンチン大会でも5チーム中5位だった。
アムステルダムの五輪後、ワールドカップやオリンピックなど欧州での大会は長期旅行と莫大な経費を必要とするため、南米選手権の大会に参加を絞ってきたが、依然として南米の御三家(アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ)はもとより、4番目の座の確保も難しかった。
1941年
2年前の1939年ペルー大会でペルーが初優勝、チリはウルグアイ、パラグアイに次いで4位(ブラジルは不参加)、5位はエクアドルだった。この41年は、1920年、26年に次いで3度目のコパ・アメリカ開催。ブラジルは不参加だったが、チリはアルゼンチン(優勝)に1−2、ウルグアイ(2位)に0−2で敗れ、ペルーに1−0、エクアドルに4−0で勝って3位にくいこんだ。
1945年
1942年の第14回コパ・アメリカはウルグアイで行なわれ、チリは7チーム中6位に終わったが、45年には再び自国で開催し、7ヶ国中3位。アルゼンチン、ブラジルには敗れたが、初めてウルグアイに勝って3強の一角を崩した。
1950年
ブラジルでのワールドカップに参加し、1次リーグで0−2イングランド、0−2スペイン、5−2アメリカと1勝2敗。2組の3位となり決勝リーグへ進めなかった。
1955年
チリで開催された第18回コパ・アメリカでアルゼンチンには0−1で負けたが、ペルーに5−4で勝ち、ウルグアイと引き分け(2−2)パラグアイ(5−0)エクアドル(7−1)に大勝して6ヶ国中(ブラジルは不参加)2位となった。こうした実績は3強に次ぐ南米の勢力と、各国から認められるようになり、経済の安定とともにワールドカップ開催へ望みが高まった。
1962年
1960年にチリを襲った大地震は、経済・社会に大打撃を与え、この年のローマ五輪への選手団派遣を取りやめるほどだったが、サッカーのワールドは予定通り自国で開催。チリは1次リーグ2組で2−1スイス、2−0イタリア、0−2西ドイツの成績で2位となってベスト8に進出。準々決勝で2−1ソ連、準決勝2−4ブラジル、3位決定戦1−0ユーゴと、見事3位となった。
1966年
イングランドでのワールドカップは1次リーグ4組で1分け2敗で退いた。62年にパンチの応酬という大荒れだったイタリアと再び対戦して0−2で敗れると、ソ連にも1−2で報復され、東洋からやってきた北朝鮮とも1−1の引き分けだった。
1969年
1960年から行なわれてきた南米のクラブ選手権ともいうべきリベルタドーレス杯で、チリはなかなか上位に進出できなかったが、この年、ウニベルシダード・カトリカがベスト4に入った。
次の1970年にもウニベルシダード・チリがやはりベスト4となり、70年のコロコロ時代、80年のコブレロア時代へとつなぐ。
1973年
チリのチャンピオン「コロコロ」がリベルタドーレス杯の決勝へ進出。アルゼンチンのインデペンディエンテに敗れた。
1974年
西ドイツでのワールドカップ1次リーグ1組で、チリは0−1西ドイツ、1−1東ドイツ、0−0オーストラリアと2分け1敗で3位となり2次リーグへ進めなかった。
1982年
1978年のワールドカップは南米予選でペルーに敗れたが、82年は本大会に進出して1次リーグ2組で、0−1オーストリア、1−4西ドイツ、2−3アルジェリアと3戦全敗だった。
この前年にコブレロアがチリのチャンピオンとしてリベルタドーレス杯に出場し、決勝まで進出。ジーコのフラメンゴ(ブラジル)に敗れた。1982年にコブレロアは決勝まで勝ち上がり、ウルグアイのペニャロールに惜敗した(0−0、0−1)。
1987年
コパ・アメリカが、しばらく続いたホーム・アンド・アウェー方式から参加国を一つに集めるセントラル方式に戻り、この年アルゼンチンに10ヶ国が終結して、3組(3チーム)に分かれて行なわれた。
チリは、ブラジル、ベネズエラと組んで、まず3−1でベネズエラを下し、続いてブラジルに4−0という大差で勝った。そして準決勝でコロンビアを2−1で破り、決勝でもウルグアイを相手に果敢に攻めたが0−1で敗れた。
1989年
イタリア・ワールドカップの南米予選第3組最終戦、ブラジル対チリが9月3日リオのマラカナン・スタジアムで行なわれた。スタンドから投げ込まれた花火でチリのGKロハスが負傷したとして、チリは試合続行不可能を唱えてフィールドに戻らなかった。しかし、目撃者の証言や写真によって、ロハスに花火は直接あたっていないことがのちに明らかになり、FIFAの裁定によりチリ協会の資格停止、ロハスの追放処分、そしてブラジルの2−0の勝利(試合中のスコアは1−0)が決定した。
1991年
リベルタドーレス杯で、チリのコロコロはパラグアイのオリンピアを破って初優勝。今年のトヨタカップに南米代表として出場し、欧州代表のレッドスター・ベオグラード(ユーゴ)と対戦することになった。