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パラグアイ・サッカー小史

1901年
首都アスンシオンに初めてフットボールを持ち込んだオランダ体育教師、ウィリアム・パートが生徒たちにサッカーを教えた
1902年
パート先生の教え子たちによって、最初のフットボールクラブオリンピアが創設
1906年
ナショナル・リーグ(LIGA PARAGUAYA DE FUTBOL=つまりサッカー協会)が生まれ、グアラニ、セロ・ポルテ―ニョ、リベルタード、オリンピアなどのクラブが参加。1年目の優勝はグアラニ、オリンピアは準優勝だった
1912年
オリンピアがリーグ初優勝。最も早くに設立されたこのクラブはリーグ開始以来7年目でタイトルを取ったわけだが、現在まで32回の最多優勝を誇っている
1919年
アルゼンチンとの最初の国際試合。アスンシオンへやって来たアルゼンチン代表は10日間で4試合全勝。得点12、失点3で、パラグアイとの間に力の差があることを見せつけた
1921年
パラグアイ・サッカー協会がFIFA(国際サッカー連盟)に加盟。同時に南米連盟にも加盟し、この年の南米選手権に参加。ウルグアイを破って注目された
1922年
南米選手権でブラジルと同勝率で首位に立ったが、プレーオフで敗れて準優勝に終わった
1924年
南米選手権でウルグアイ、ペルーを破って準優勝
1930年
ウルグアイでの第1回ワールドカップに参加。ベルギーに勝ち、初の欧州勢との対戦を飾ったが、アメリカに0−3で敗退
1931年
プロフェッショナルを導入したが、ちょうど2年前から始まったボリビアとの戦争(1929−35年)により、リーグは3年間ストップ。国の経済は悪化し、優秀なプレーヤーが海外へ流出する
1947年
1930年代に各国のプロ化が進み、南米の水準が急速に上がる。パラグアイのサッカーの水準もまた伸び始めるが、第2次大戦後は特に顕著となる
この年、南米選手権で準優勝となり、2年後の1949年にも準優勝。監督フレイタス・ソリッチの指導によって、代表チームは躍進した
1950年
南米での好成績もワールドカップの舞台となると、いささか手強い。ブラジルでのワールドカップではスウェーデンと引き分け(2−2)イタリア(0−2)に敗れ1次リーグで退いた
1953年
リマ(ペルー)での南米選手権で初優勝。南米チャンピオンとなる。チリ(3−0)ボリビア(2−1)ブラジル(2−1)エクアドル(0−0)ウルグアイ(2−2)ペルー(2−2)と6戦3勝3分け0敗の堂々たる成績だった
1960年
南米のクラブのチャンピオンシップ「リベルタドーレス杯」に出場したオリンピアが決勝まで進んだが、ウルグアイのペニャロールに敗れ準優勝。オリンピアは1956年から国内リーグで5年連続優勝し、50年後半の黄金期だった
1979年
オリンピアがリベルタドーレス・カップで初優勝。パラグアイが初めて南米クラブNo.1のタイトルを手にした。ウルグアイ人監督ルイス・クビジャの指導のもとに自信をつけたオリンピアは1次リーグでポリバー(ボリビア)に1敗した以外は負け知らずで、決勝でアルゼンチンの名門ボカ・ジュニアーズを倒しての優勝だった。勢いに乗ったオリンピアは、ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ(今のトヨタカップ)に挑戦。ヨーロッパチャンピオンズ・カップ優勝のノッテインガム・フォレスト(イングランド)は参加せず、代わって2位のマルメ(スウェーデン)が相手だった。11月18日、スウェーデンへ乗り込んだオリンピアは1−0と先勝し、翌年の第2戦に希望を大きくした
同年、パラグアイは日本で行なわれた第2回ワールドユースに出場。準々決勝でソ連に敗れたが、チームの主軸、フリオ・セサール・ロメロはマラドーナと並んで大会優秀選手ベスト3に入った
パラグアイはこの年、南米選手権にも優勝して2冠となり、国際的にも脚光を浴びた。パラグアイは予選第3組でエクアドルに2勝(2−1、2−0)ウルグアイに2引き分け(0−0、2−2)の2勝2分けで準決勝に進み、ここで強敵ブラジルを2−1、2−2の1勝1分で退けて決勝へ進出。チリをホームで3−0、アウェーでも0−0と引き分けて1953年以来2度目のタイトルを取った
1980年
オリンピアはマルメとのヨーロッパ/サウスアメリカ・カップの第2戦を前にインターアメリカン・カップで中南米カリブ地域のチャンピオン、FAS(エルサルバドル)と対戦。2月17日のアウェーを3−3で引き分けた。そして、3月3日のスウェーデンのマルメを迎えてのホームゲ−ムを2−1で勝って、初めてヨーロッパ/サウスアメリカ・カップを手にした
その2週間後の3月16日、オリンピアはエルサルバドルのFASを迎えて5−0で完勝を飾り、ここにリベルタドーレス・カップ(南米クラブ選手権)インターアメリカン・カップ(南米対中南米)ヨーロッパ/サウスアメリカ・カップ(南米対欧州)のビッグタイトルの3冠となった
1981年
国際的にパラグアイ・サッカーの評価が高まったが、これはプレーヤーの海外流出にもつながる。若いロメロがアメリカのニューヨーク・コスモスへ移ったのに代表される選手の“輸出”は国内チームの水準低下となり、スペイン・ワールドカップは南米予選第3組で1勝3敗の最下位に終わった(このグループからの代表はチリ)
1985年
メキシコ・ワールドカップの南米予選、パラグアイ代表は第3組でブラジル、ボリビアと戦い、2位となって(首位ブラジル)予選第1組の2・3位、ペルー・コロンビア、第2組(3チーム)の2位チリとともに敗者復活シリーズに出場。コロンビアと1勝1敗(3−0、1−2)ながら得失点差で勝ち上がり、チリを3-0、2-2で迎えて南米の第4代表となった
1986年
本大会では、開催国メキシコ、ベルギー、イラクと1次リーグB組で戦い、1勝2分け(1-0イラク、1−1メキシコ、2−2ベルギー)となってB組2位で第2ラウンドに進出したが、イングランドに0−3と敗退した
1987年
アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイの南米3強に続く第4のサッカー国とみられるようになったパラグアイだが、アルゼンチンで開催された南米選手権は1次リーグC組で1分け1敗の最下位。この大会ではコロンビアが活躍し、南米の4番目に浮上してきた
1989年
イタリア・ワールドカップの南米予選第2組で、パラグアイはコロンビア(2−1)エクアドル(2−1)にホームで2勝しながら、アウェーではコロビア(1−2)エクアドル(1−3)と連敗。この結果2位となって本大会には進めなかった
ブラジルでの南米選手権では1次リーグA組でペルー(5−2)コロンビア(1−0)ベネズエラ(3−0)ブラジル(0−2)と3勝1敗で決勝ラウンドへ進んだものの、決勝ラウンドではウルグアイ(0−0)ブラジル(0−3)アルゼンチン(0−0)と2分け1敗に終わり、結局4位に終わった
1990年
リベルタドーレス杯でもオリンピアが決勝まで進みながら、コロンビアのナシオナルに1勝1敗のPK戦の末に敗れた。リベルタドーレス・カップへの挑戦を繰り返すオリンピアは、第5組で同じパラグアイのセロ・ポルテーニョ、ブラジルのバスコ・ダ・ガマ、グレミオの強豪を迎えて3勝1分け2敗、9得点8失点で首位。準々決勝でチリのウニベルシダ・カトリカを退け(2−0、4−4)準決勝でコロンビアのナシオナル・メデリンと1勝1敗(2−1、2−3)PK戦の末2−1で勝って前年の雪辱を遂げた。決勝はエクアドルのバルセロナを2−0、1−1で破り、トヨタカップ出場を決めた
3年がかりで準備したトヨタカップは、ACミランに0−3で敗れ、クラブ世界一の夢はならなかった