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南アフリカ・サッカー小史

1860年
(1860年代)
南アフリカのポートエリザベスで英国人によってフットボールが行なわれるようになった。それがアソシエーション(協会)ルールのものか(つまりサッカー)、ラグビー系(手を使う)のものなのかはわからないが……。
1879年
ポートエリザベス市からケープ州の他の町へ、また東北のナタール州へとサッカーは広がり、この年、いまの州都ピーター・マリッツバーグ市にピーター・マリッツバーグ・カウンティ・クラブが生まれた。
1882年
ケープ州の白人が同じフットボールでもラグビーを好んだのと違い、ナタール州ではサッカーが急激に広まって、1882年にNATAL FOOTBALL ASSOCIATION(ナタール・サッカー協会)が、5つのクラブをメンバーとして誕生した。英国本土以外に、こんなに早くFA(サッカー協会)が設立されたのは、このナタール州とオーストラリアのニュー・サウス・ウェールズ州だけだ。
1891年
ケープ州FA創立。最初のリーグがケープタウンに誕生。
1892年
ナタール州、ケープ州のFAを中心に南アフリカFA(SOUTH AFRICAN FOOTBALL ASSOCIATION。略称SAFA)が設立され、このSAFAはロンドンのFAに承認された。SAFAの最初の公式試合、カリー(CURRIE)カップがケープタウンで行なわれ、次の年、オライリーカップも開催された。
1897年
イングランドのアマチュア名門クラブ、コリンシアンズが最初の外国チームとしてアフリカの土を踏み、南アフリカ選抜と3試合した。3戦全勝、総得点9、失点2は当時のコリンシアンズの実力からみて、南アのサッカーの水準が予想以上に高くなっていたことになる。
1899年
(1899〜1902年)
1899年から1902年まで続いたボーア戦争で、英本国から送られてきた英国軍隊の駐留によって、サッカーはさらに普及してゆく。
1902年、ボーア側が降伏し、英国植民地として、南アフリカが統一された。この統一によってSAFAに入るトンスバール州にはレンジャーズ・オブ・ヨハネスブルグ(1899年創立)アルカディア・シェパード・オブ・ブレトリア(1903年)カリーズ・オブ・ジャーミストン (1906年)など重要なクラブが、ヨハネスブルグ(現在人口160万人)ブレトリア(53万人)、ジャーミストン(16万人)ら各主要都市で活動してゆくことになる。
1906年
ナタール州とケープ州からの南ア選抜チームが南米へ遠征した。この最初の海外遠征は12戦して1敗だけ(1−4アルゼンチン)。サンパウロでパウリスタ選抜と試合して6−0で大勝したのは、いまのブラジルと南アのサッカーからは信じられないような記録だ。
1910年
イングランドのアマ選抜が南アを訪れ、3試合(3−0、6−2、6−3)を行なった。コリンシアンズの再訪(1903年、1907年)をはじめ、その他のイングランド選抜チーム(フル・インターナショナルではない)との第2次大戦までの南アでの12試合、あるいは1924年の英国本土への南アの遠征(26戦16勝10敗)などで、代表チームの選手はすべて白人だった。
1952年
南アフリカでは1900年ごろから黒人の間でもサッカーが行なわれるようになり、第2次大戦後には急速に広まった。1952年にSAFA(南アフリカ・フットボール・アソシエーション)はFIFAに加盟。国内では1948年にアパルトヘイト(人種差別)政策をスローガンにしたマランの国民党が政権を執り、次々に差別を進める法律を制定していった。
1956年
SAFAはエジプト、スーダン、エチオピアとともにアフリカ・サッカー連盟の創立とアフリカ選手権の創設を提唱した。しかしアフリカ選手権に白人だけのチームと非白人のチームを参加させたいという南アフリカの意向は他の3ヶ国に拒否され、結局、アフリカ連盟への加盟もできなかった。
1959年
南アフリカにプロフェッショナルが導入され、ヨハネスブルグやブレトリアなどの11のクラブ(のちに13)が、NATIONAL PROFESSIONAL FOOTBALL LEAGUE(NFL)を結成。プロへの移行は大きな反響を呼び、サッカーの盛んなトランスバールはもちろん、ラグビーの方が白人間で人気のあったケープ州でも急速に浸透するようになる。
1960年
SAFAをFOOTBALL ASSOCIATION OF SOUTH AFRICA、略称FASAに変更する。
1964年
FIFAは東京オリンピックの時期に開いた総会で、南アフリカ・サッカー協会(FASA)に対し、FIFA規約第2条第4、5項に違反しているとの理由で資格停止処分とした。
1970年
IOC(国際オリンピック委員会)は南アフリカの参加資格を停止。南ア政府に対してアパルトヘイト政策の変更をしない限りオリンピックに参加できないことを通知。
1972年
非白人のプロ・サッカーリーグがスタート。NATIONAL PROFESSIONAL SOCCER LEAGUE(NPSL)と呼ぶこのグループには16クラブが参加。オルランド・チーフス・ヨハネスブルグやカイザー・チーフス・ヨハネスブルグなどの強豪クラブが成功を収めるようになる。このプロ・リーグを統括する団体、SOUTH AFRICAN SOCCER FEDERATION(略称SASF)が創られた。
SASFの役員には白人も入るのだが、こうしたやり方は非白人のサッカーへの興味に適応する組織づくりと同時に、白人だけの組織に非白人が入ってくるのを拒むアパルトヘイト政策にもそっている。
1976年
モントリオール五輪の際に開催されたFIFA総会で、南アフリカ・サッカー協会の加盟問題が討議されたが、アフリカ連盟の現地報告に基づき、南アの人種差別は依然としてFIFAの規則に違反しているとして、28票対9票で資格停止は解除されず、南アの国際試合への道は閉ざされたままとなった。
南アのスポーツ委員会は白人、非白人のどちらのサッカーチームにも、1チームに3人までは他の人種が入ってプレーすることを承認。次いで白人チーム対非白人チームの試合も承認した。
1977年
この年4月、ヨハネスブルグのランド・スタジアムでケープタウン・シティ(白人)対バール・プロフェッショナル(非白人)の試合が行なわれ、3−0でケープタウン・シティが勝った。
酒造会社マインステイのスポンサーによる白人、非白人チームの短期リーグも計画され、バール・プロフェッショナル(非白人)がホームでイースト・ロンドン・ユナイテッド(白人)を2−0で破った。バールには3人の白人選手がいたが、このゲームは白人チームが初めて非白人チームのホーム・グラウンドで試合をした、記録的な出来事だった。
最初の白人・非白人混合の南ア代表チームがローデシア代表とヨハネスブルグで対戦し、ランド・スタジアムに3万の観衆を集めた。スコアは南アの7−0。8人の白人と7人の非白人は見事なチームワークを見せた。白人と非白人を融合させようというスポーツでの慎重な努力はあっても、南ア政府のアパルトヘイトを守ろうとする姿勢は固い。体制打破を叫ぶ黒人運動の取り締まりも厳しく、その衝突は多くの犠牲者を生んだ。こうした南ア政府に対し、国連は1976年には武器禁輸措置をとった。
1985年
ボータ首相(1978年就任)の憲法制定によって、1984年、人種別の3院制議会が発足、ボータ首相は大統領となった。これに対してアフリカ人を中心とする反対運動はさらに強まり、政府は弾圧するために非常事態宣言を発令した。南ア制裁に消極的だったアメリカ合衆国のレーガン大統領までも経済制裁措置を発表するなど、国際社会は一段と南アに対する制裁措置を強める。
反アパルトヘイト運動のため、1964年に終身刑を宣告されて投獄されていたネルソン・マンデラの釈放を求める運動が世界中に広まり、この年ついにボータ大統領は条件なき釈放を提示されたが、これを拒否した。
1989年
9月、デクラーク新大統領が登場。改革路線を進める。
1990年
2月、ネルソン・マンデラが27年間の獄中生活から解放され、彼をトップの指導者とする黒人運動はさらに盛り上がり、組織が増大。非常事態宣言の解除。
1991年
土地2法、人口登録法などアパルトヘイトの根幹となる法律を失効させ、アパルトヘイト体制派の国防相も更迭。南アフリカ政府の急速なアパルトヘイト撤廃政策によって、南アフリカ・サッカーの国際スポーツ界への復帰が予想されたため、FIFAはアフリカ連盟の調査委員を南アに送って実態の調査をした。IOCは南アフリカのオリンピックへの復帰を決めた。
1992年
アフリカ・サッカー連盟は1月、セネガルでの総会で南アフリカの連盟復帰を承認。FIFAはアフリカ連盟の調査報告をもとに、この年7月の総会で南アの資格停止の解除について討議することを決めた。
アフリカ大陸で最も早くサッカーの根づいた南アフリカだが、アパルトヘイト政策を執り続け、白人と非白人が別々にスポーツするという差別の道を歩んだが、1990年代に入ってようやくこの政策を排除した。 国際サッカー界に人口3000万人を超える多様な人種のスポーツ国が復帰することは、世界のサッカー人にとっても新たな興味となるはずだ。
1994年
1994年のアメリカW杯に向けたアフリカ予選に初出場し、ナイジェリアと同じ組に入る不運もあって敗退。
1996年
新憲法を採択。国民党は政権から離脱。 自国開催となった第20回アフリカ選手権で、マンデラ大統領の見守るなか初優勝。
1998年
アフリカ予選を4勝1分1敗(得点7、失点3)で突破し、フランスW杯に出場。FA創立から116年、念願のW杯初出場となった。本大会ではグループCに入り、フランスに0−3、デンマークと1−1、サウジアラビアと1−1の2分1敗で2次ラウンド進出はならなかった。
同年にブルキナファソで行なわれたアフリカ選手権では準優勝。FWのベニー・マッカーシーは得点王に輝いた。
1999年
6月、第2回目の総選挙実施。ムベキ大統領就任。
2002年
アフリカ予選を7勝1分0敗で突破(得点13、失点3)し、日韓W杯に2大会連続2回目の出場。スペイン、パラグアイ、スロベニアと同じグループBで、パラグアイに2−2、スロベニアに1−0、スペインに2−3の1勝1分け1敗、2次ラウンド進出ならず。クイントン・フォーチュン、シヤボンガ・ノンベテ、ベニー・マッカーシーらが活躍を見せた。
2004年
4月、第3回目の総選挙実施。ムベキ大統領再任。
5月にはFIFAの理事会で、モロッコ、エジプトに競り勝ち2010年W杯開催国に決定。 ラグビーW杯などこれまでの国際大会の開催実績を高く評価された。