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スイス・サッカー小史

1855年
各種のフットボールが英国からやってきた学生たちによって、スイスの学校で行なわれるようになった。
1869年
ジュネーヴのシャトレン・カレッジにいた英国人学生たちが、アソシエーション・ルールによるサッカーの試合を行なった。
※アソシエーション・ルールは1863年、イングランドのFA(フットボール協会)の設立によって統一された。
1879年
北西部のザンクト・ガレンにFUSSBALL CLUB St, GALLENが誕生。それまでも各地に小さなクラブはあったが、このザンクト・ガレンが現在、トップリーグで活躍する最古のクラブ。
日本では明治12年。坪井玄道が欧米の体育視察から帰ってサッカーを伝えるのは、まだこれから9年も後のこと。
1886年
ドイツ語圏のチューリヒ市内に、グラスホッパー・クラブが生まれる。このチームはすぐにスイスのトップとなり、現在に至っている。
1890年
ジュネーブにセルベット・フットボール・クラブ誕生。この地はフランス語圏。以降、ドイツ語圏とフランス語圏には次々とサッカークラブが設立される。
1893年
バーゼル市にFUSSBALL CLUB BASEL、ラ・ショー・ド・フォン市にはFUSSBALL CLUB LA CHAUX de FONDSなどが設立された。
1895年
SWITZERLAND FOOTBALL ASSOCIATION(スイス・フットボール協会)が、ドイツ語圏のクラブによって東部の工業都市ルテンに設立された。
1897年
リーグ戦開始。優勝チームはグラスホッパー。
1898年
非公式ながら、初の国際試合が行われる。バーゼルで南ドイツと戦ったスイス(数人の英国人を含む)が、3−1で勝利を飾った。
1899年
チューリヒで行なわれた南ドイツとの再戦は、0−3でスイスが敗れる。
1904年
フランスとベルギーに誘われ、スイス・サッカー協会はFIFA(国際サッカー連盟)の創立に加わった。
1905年
初の公式国際試合。フランスに0−1で敗れる。
1912年
1905年からこの年まで、22の国際試合を行なう。戦績は5勝3分け14敗。
1924年
パリ・オリンピックに参加。1回戦はチェコ・スロバキアと引き分け、再試合で勝って2回戦に進出する。その後イタリア、スウェーデンを破り決勝まで駒を進めたが、ウルグアイに敗れ銀メダルに終わった。
1934年
イタリア・ワールドカップ予選で第8組に所属。ユーゴスラビアやルーマニアと出場権をかけて戦った。2引き分けだったものの、ユーゴスラビアを破ったルーマニアとともにワールドカップに出場。1回戦でオランダを3−2で下した後、準々決勝でチェコ・スロバキアに2−3と敗れた。
1938年
オリンピックやワールドカップへの参加で、国内のサッカー人気は高まってきた。さらに、この年の5月21日、チューリヒで行なわれたイングランド戦にも2−1で勝ち、スイスはヨーロッパ全土を驚かせた。
フルタイムのプロで構成されたサッカーの母国を破ったのは、1937年からスイスを指導していたカール・ラッペン(オーストリア人)の戦術。当時としては珍しい4人によるDFラインは“スイス・ボルト・システム”といわれ、イングランドを封じたのだった。
4人目のDFは深く位置していた(今のスイーパー)。これは、後にイタリアの“カテナチオ”となって、第2次世界大戦後、エレニオ・エレラ監督(インテル)の成功により流行となる。

フランス・ワールドカップ予選第4組でポルトガルに勝ち、本大会に進出した。
1回戦、ドイツと2−2の引き分け、再試合を4−2として準々決勝に進んだが、ハンガリーに0−2で屈した。当時、ドイツは併合したオーストリアの選手も加わっていたため、スイスの健闘は高く評価された。
1939年
ナチス・ドイツのポーランド侵攻に始まった第2次世界大戦は6年間も続くが、中立国スイスは戦火を被ることなく、同じ立場のポルトガルやスウェーデンなど国際交流を深めた。
1950年
第2次世界大戦後、初のワールドカップがブラジルで開催された。
予選第4組でルクセンブルグを破ったスイスは本大会に進出。ブラジル、ユーゴスラビア、メキシコとともに第1組に入った。ユーゴスラビアには敗れたが、ブラジルに2−2、メキシコには2−1で勝って1勝1分け1敗。“ベロウ”(フランス語で錠前の意)作戦の威力を発揮した。
1954年
6月16日から7月4日まで、第5回ワールドカップがスイスのローザンヌ、ジュネーブ、チューリヒ、ベルン、バーゼル、ルガノの6都市で開催された。
大会は16ヶ国を4ヶ国ずつ4組に分け、上位2チームが準々決勝に進出。しかし1次リーグは現在のような総当たり方式ではなく、1チーム2試合。なお、2位が決まらない場合はプレーオフを行なっていた。
スイスは、1次リーグ第4組で1勝1敗(イタリアに2−1、イングランドに0−2)。前述のプレーオフでイタリアを4−1と下し、準々決勝に駒を進めた。しかし、ポケット主将の故障でDFラインが破綻をきたし、オーストリアに5−7で屈した。
1958年
スウェーデン・ワールドカップは予選で敗退。フェアーズ・カップでは、ローザンヌが準決勝でロンドンに敗れた(2−1、0−2)。
1959年
ヤングボーイズ・ベルンが欧州チャンピオンズカップで大活躍。1回戦でハンガリーのMTKブタベストを2−1、4−1、準々決勝は0−0、2−2から再戦の末にカールマルクス・シュタット(東ドイツ)を2−1で破り、スイスのクラブとして初のベスト4に進出した。準決勝はランス(フランス)との対戦。1−0、0−3と1勝1敗ながら、得失点差で敗れ去った。
1962年
チリ・ワールドカップの予選(欧州第1組)は通過したが、本大会では3連敗の最下位(0−1チリ、1−2西ドイツ、0−3イタリア)。
1964年
欧州チャンピオンズカップで、FCチューリヒがベスト4入り。しかし、レアル・マドリードに1−2、0−6で敗れた。
1966年
イングランド・ワールドカップは予選(欧州第5組)を突破。本大会は1次リーグ第2組で西ドイツに0−5、スペインに1−2、アルゼンチンに0−2の3連敗。
1977年
FCチューリヒが欧州チャンピオンズカップで準決勝進出。残念ながらリバプールに1−3、0−3で敗れた。しかし、当時のリバプールは全盛期。キーガン、マクダーモット、ハイウェイなどの攻撃が冴えわたり、この年から連覇している。
ちなみに、このときのチューリヒはスコットランドのグラスゴー・レンジャーズ、フィンランドのトリク、東ドイツのディナモ・ドレスデンを破ってベスト4に進出している。
1978年
UEFAカップでグラスホッパーが活躍した。1回戦はデンマークのプレムに大勝、2回戦でチェコ・スロバキアのインター・ブラスチラバ、3回戦ではディナモ・トビリシ、そして準々決勝はアイントラハト・フランクフルト(西ドイツ)を破り、準決勝に進出。しかし、フランスのバスティアに3−2、0−1とアウェーゴール2倍のルールに涙をのんだ。
1991年
クラブのレベルではベスト4が最高、代表チームでも第1回欧州選手権で準々決勝に進んだ以降、上位には入っていない。今回の欧州選手権予選(スウェーデン大会)も、あと一歩で敗れ去った。
元西ドイツ代表のリベロ、シュティーリケ監督率いるスイスは、予選第2組でスコットランド、ルーマニア、ブルガリア、サンマリノと戦った。スコットランドとルーマニアに1分け1敗、ブルガリアとサンマリノには連勝して4勝2分け2敗の勝点10。結局、トップのスコットランドに勝点差1(4勝3分け1敗、勝点11)及ばず、予選突破はならなかった。