賀川サッカーライブラリー Home > Nations > メキシコ > メキシコ・サッカー小史

メキシコ・サッカー小史

1897年
19世紀の終わり頃、英国人、フランス人、スペイン人たちによってサッカーがメキシコ各地に伝えられ、メキシコシティやトルーカ、グアダラハラ、ベラクルスなどで行なわれるようになったという。
年代的に記録されているのは、この年にメキシコシティの「聖母マリア会」や「イエズス会」などのキリスト教の団体が、彼らの学校で生徒たちにサッカーを教えたことが残っている。
1903年
選手権リーグがスタートし、「オリサバ・アスレチック・クラブ」が優勝した。2年目は「メキシカーノ・カントリー・クラブ」が優勝。3年目は「パチューカ」4年目は「レフォルマAC」がタイトルを握る。
1912年
エスパーニャFC創立。このクラブは1914年から1924年まで11年間に9回優勝。1917年は「アメリカ」がリーグに加わるなど、政情不安な時期にも発展してゆく。
1927年
メキシコ・サッカー連盟「Federacion Mexican de Futbol Asociacion」(略称・FMFA)が設立された。
1928年
新設のFMFAのバックアップで、この年オランダのアムステルダムで開催されたオリンピックに参加。世界の舞台への初登場は、スペインを相手に1−7の大敗。敗者同士のチリとの試合も1−3で敗れた。
1930年
南米ウルグアイで開かれた、第1回ワールドカップに参加。1次リーグ3戦3敗だった。
1931年
プロフェッショナリズムの台頭でトラブルが起こり、FMFAはつぶれ、プロを認める「Federacion Mexican de Centro」が組織され、これが「Federacion Mexican Nacional de Futbol Asociacion」と改名。そして1948年には元のFMFAに名を戻す。
1934年
ワールドカップ・イタリア大会の予選第1グループでメキシコはキューバを破るが、イタリアでの最終予選でUSA(アメリカ)に敗れる。
1938年
いまの北中米カリブ海地域連盟の前身となる「中米・カリブ海連盟」(Confederacion Centroamericano y del Caribe)が誕生。しかし、メキシコはこの連盟に加わらず、別にUSA、キューバとともに1939年「北アメリカ・フットボール連盟」を設立した(3ヶ国による北米サッカー大会は1947年と1949年に行なわれている)。
1948年
第2次大戦後、ロンドンで開催されたオリンピックに参加。1回戦で韓国に3−5で敗退。
1950年
W杯ブラジル大会、1次リーグ3戦3敗。
1954年
W杯スイス大会、1次リーグ2戦2敗。
1958年
W杯スウェーデン大会、1次リーグ1分け2敗。
1961年
FIFAのバックアップで中米、北米、カリブ海地域を一つにまとめた連盟が生まれる。「Confederacion Norte-Centroamericana y del Caribe de Futbol」。このオリジナルメンバーにメキシコも加わった。
1962年
ワールドカップ・チリ大会、1次リーグ1勝2敗。3組ですでに準々決勝の決まっているチェコとの試合に勝って、メキシコはワールドカップで初の白星を挙げた。中北米の地域予選では圧倒的な強さをみせてワールドカップの常連となりながら、本大会で勝てなかったメキシコのサポーターには大きな喜びだった。
1963年
中北米カリブ海連盟(略称・CONCACAF)の各国チャンピオン・クラブによる地域クラブ決定戦がカップ方式でスタート。またワールドカップやオリンピックの予選もすべてCONCACAFのもとで行なわれることになった。
1964年
東京オリンピックの1次リーグ、1組で1分け2敗で3位。オリンピックでの勝ち星は、次のメキシコ大会まで待つことになる。
東京大会の直前に開かれたFIFA総会で、1970年ワールドカップの開催国はメキシコに決まった。すでに、東京オリンピックの次の1968年オリンピック開催も決まっていたから、メキシコは南北アメリカ大陸で最初にオリンピックとワールドカップを開催する国となった。
1968年
高度2,240メートルのメキシコシティでのオリンピックは、高地順応という特殊な課題を世界のアスリートに与えたが、ボブ・ビーモン(米)の走り幅跳びで世界記録が生まれるなど、多くの話題を残した。
サッカーでは、日本の銅メダルという、アジア人にとって国際舞台で初の快挙もあった。
開催国メキシコは、1次リーグ2勝1敗で1組2位となって準々決勝に進み、スペインを2−0で破って1928年の大敗の雪辱を果たした。準決勝は東欧のブルガリアに2−3で敗れて、3位決定戦でも日本に敗れた。メダルは逃したが、ワールドカップの開催を控え、アステカ・スタジアムの完成とともに国際舞台でのメキシコの力を示すことができた。
1970年
ワールドカップ開催国の面目にかけて1次リーグ突破を目指すメキシコは、2勝1分けで2位となって準々決勝に進んだが、ここで強敵イタリアと当たり1−4で敗退した。大会は見事に運営され、参加チームのすべてがメキシコ人の温かい歓迎を喜んだ。高度と暑さはプレーに影響を与えはしたが、明るく華やぎ、テレビ放映とブラジルやペルー、西ドイツなどの攻撃力によって、サッカーの魅力がさらに強く世界にアピールされた大会だった。
1972年
ミュンヘン・オリンピックでメキシコは1次リーグ2組で2位となり2次リーグへ進んだが、1分け2敗で敗退。
1974年
ワールドカップ・西ドイツ大会は予選で敗れ、第2次大戦後、この地域の代表としての連続出場は6回でストップ。メキシコをおさえて本大会に出場したハイチは1次リーグ3敗だったが、イタリアの名GKゾフのゴールを破って(1−3)注目された。
1976年
モントリオール・オリンピックは1次リーグ2組で2分け1敗の3位。
1978年
ワールドカップ・アルゼンチン大会でも1次リーグ2組で3敗。西ドイツ、ポーランドとの敗戦はともかく、チュニジアに敗れたことで、アフリカ勢の急成長と比較して北中米の停滞が語られるようになった。
1983年
5月にストックホルムで開かれたFIFA委員会は、コロンビアが開催権を返上した1986年ワールドカップをメキシコで開催すると決定した。この年6月、ワールドユースをメキシコで開催。第1回をチュニジアで、第2回を日本で行ない、3回目のオーストラリア大会から正式のワールドユース選手権となった20歳以下の大会だが、メキシコ・ファンの関心は高く、平均3万人が会場に詰めかけて、決勝のアステカは11万人で埋まった。開催国メキシコは1次リーグ1組の4位(1分け2敗)。
1986年
メキシコにとって二度目の開催となったワールドカップは、24チーム参加となって二度目の大会でもあった。ブラジル、フランス、ベルギー、西ドイツ、そしてアルゼンチンなどの好プレーで大会は盛り上がり、なかでもマラドーナのスーパープレーは世界中のファンを惹きつけて、サッカーの面白さ、楽しさを広くテレビの生放送で知らせた。
メキシコは1次リーグ2組で2勝1分け。首位となって2次ラウンドに進み、1回戦でブルガリアを破った。準々決勝は西ドイツと0−0、PK戦で敗退したが、ホームチームの健闘に大会は沸き立った。
1988年
6月30日のFIFA理事会でメキシコの2年間出場停止を決めた。これは1989年サウジアラビアで開催される第5回ワールドユースの北中米カリブ海予選(88年4月)に出場したメキシコ・ユース代表(20歳以下)のうち、4人が年齢をこえていることが明らかになったことに対する処分。
この予選の順位は1位コスタリカ、2位メキシコとなっていたが、メキシコに代わって予選3位のアメリカがコスタリカとともにサウジの本大会へ参加することになった。
メキシコは88年ソウル・オリンピックの予選に勝っていたが、この決定によりその出場資格を失い、グァテマラがソウルに出場。停止処分は1990年6月29日まで及ぶため、イタリア・ワールドカップ予選に参加できなかった。そしてメキシコ・サッカー連盟の主要役員は、ほとんど役職から終身追放となった。