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コートジボワール・サッカー小史

1920年
(1920年代)
フランスの植民地だった頃、この国でサッカーが始まる。統治者フランス人たちがプレーしていたことと、隣国ガーナの影響があったようだ(※)。
大西洋に面したモーリタニア、セネガル、ガンビア、ギシアビサウからギニア、シエラレオネ、リベリア、さらにギニア湾に南面するコートジボワール、ガーナ、トーゴ、ベナン、ナイジェリア、その背後のマリ、ブルキナファソ、ニジェールなどの各国は、地域的に西アフリカと総称される。
現在この地域には1億7,000万人をこえる人々が、620万平方キロ(日本の16倍)の広大な土地に住んでいるが、18世紀の恥ずべき奴隷売買によってこの地域の住民は大きな被害を被った。さらにイギリス、フランス、ドイツなどの植民地拡張政策によって、欧州列強の植民地となる。第1次大戦でドイツが敗れ、欧州に平和が戻ってくるとともに、“フランス領西アフリカ連邦”にも、スポーツを楽しむ余裕が生まれるようになってきた。
※ガーナについては1992年1月号をご参照
1930年
(1930年代)
コートジボワールの各地に、多くのクラブチームが誕生する。
1938年
首都アビジャンにナショナル・スタジアムを建設。植民地政府はこの地域の大会にカップを贈るなど、スポーツを奨励した(1936年にフランス本国で人民戦線派が勝利しレオン・ブルムが首相に就く。彼は植民地でのアフリカ人の生活改善を図ったが、スポーツの奨励もおそらくその一つだったのだろう。この政府は1938年に崩壊するが、この政策は引き継がれた)。
1946年
第2次大戦の終結とともにフランス本国の第4共和国憲法によって、フランス領西アフリカは海外省管轄の海外領土となった。これにより海外領土に住む人すべてに、フランス人同様の市民権が与えられた。その後、1950年代に独立運動が広がり、1960年7月にコートジボワールとして独立する。
1960年
独立とともに、サッカー協会も発足。FIFAに加盟する。同時に選手権リーグや、カップ戦もスタートした。首都アビジャンの3つのクラブ、ASECアビジャン、スタード・アビジャン、ステラ・クラブが強く、全国選手権でもこれらのチームの優位が続くとともに、対外的にも強力なチームとして認められるようになった。
1965年
コートジボワール代表、通称『エレファンツ(象)』は、アフリカ選手権で3位となる。初めて西アフリカ地域予選を突破し、チュニジアでの6チーム集結大会の1次リーグでザイールに勝ち(3−0)ガーナに敗れて(1−4)B組2位で3位決定戦に進み、セネガルを1−0で倒した。 隣国のガーナはこの大会も制して、2回連続優勝を飾っている。
1957年を第1回とするアフリカ選手権はエジプト(57、59年)エチオピア(61年)ガーナ(63、65年)らが優勝しているが、コートジボワールもこれらの強国のレベルに一歩近づいたのだった。
1966年
1964年から始まったアフリカのクラブによるカップ戦、チャンピオンズカップの第2回大会にスタード・アビジャンが初優勝。
1968年
第6回アフリカ選手権で2回連続の3位に入る。今回はエチオピアでの決勝大会に8チームが参加。1次リーグA組で、アルジェリア(3−0)ウガンダ(2−1)に勝つが、エチオピアに敗れ(0−1)A組2位で準決勝に進出する。
準決勝では延長の末ガーナに3−4で敗れたが、3位決定戦ではエチオピアに1−0と雪辱を果たしている。優勝はガーナを倒したザイールだったが、コートジボワールのポコウをはじめとするイレブンの評価も高かった。
1970年
第7回アフリカ選手権も予選を突破し、スーダンでの決勝大会に進む。1次リーグでは3戦全勝したが、準決勝でまたしてもガーナに延長で敗れ、3位決定戦でもエジプトに1−3と敗れた。しかし3回連続のベスト4に入ったことで、この国のサッカーはアフリカでもトップクラスである、と自他ともに認めるようになった。
1974年
アフリカのトップから世界のトップを目指したワールドカップの予選では、第3ラウンドまで勝ち進んだが、1970年大会のアフリカ代表であるモロッコに敗れる(1−1、1−4)。このモロッコを破ったザイールが本大会に進んだ。
16ヶ国でのワールドカップは、アフリカ各国にとって狭い門だったといえる。この年エジプトで行なわれた第9回アフリカ選手権決勝大会では、1次リーグで敗退した。
1975年
チャンピオンズカップに続き、カップ・ウィナーズ・カップがスタート。アビジャンをホームとするステラ・クラブが決勝に進むが、カメルーンのトレーネ・カウンデでに敗れる。ちなみに、チャンピオンズカップではASECアビジャンが1971年、1976年に決勝に進んでいるが、準優勝に終わっている。
1976年
ワールドカップ・アフリカ予選は第3ラウンドで敗退。1976年の第10回、1978年の第11回アフリカ選手権も、予選でギニアやオートボルタ(現・ブルキナファソ)らによって阻まれる。
1980年
ナイジェリアで開催された第12回アフリカ選手権では、1次リーグA組で1勝1敗。
1984年
第14回アフリカ選手権決勝大会をコートジボワールで開催。1次リーグA組でトーゴを破る(3−0)が、エジプト(1−2)カメルーン(0−2)に敗れる。このときのカメルーンには、90年イタリア・ワールドカップで活躍したロジェ・ミラがいた。
1986年
ワールドカップ予選では第1ラウンドでガンビアに勝つが、第2ラウンドでガーナに敗れる(アフリカ代表はモロッコとアルジェリア)。
エジプトで開催された第15回アフリカ選手権では、1次リーグでモザンビーク(3−0)セネガル(1−0)を破り、エジプト(0−1)に敗れたもののA組2位で準決勝へ進出。しかしロジェ・ミラにゴールを許し決勝進出はならず。3位決定戦でモロッコ(3−2)を破り3位に入賞。
1988年
モロッコで開催された第16回アフリカ選手権では、アルジェリア(1−1)ザイール(1−1)モロッコ(0−0)と3試合とも引き分けで、準決勝進出はならなかった。
1990年
アルジェリアで開催された第17回アフリカ選手権に出場。エジプトに勝った(3−0)が、ナイジェリア(0−1)アルジェリア(0−3)に敗れ、1次リーグで敗退した。
イタリア・ワールドカップの予選は第2ラウンドでアルジェリア、ジンバブエと並んで1勝2分け1敗で2位。決勝ラウンドには進めず、ワールドカップへの出場は1994年大会に賭けることになった。
1992年
セネガルで開催された第18回アフリカ選手権には12チームが参加。4組に分けられた1次リーグC組で、前回優勝のアルジェリアを破り(3−0)コンゴと引き分け(0−0)首位で準々決勝へ進出。ザンビアを破り(1−0)準決勝でもPK戦の末カメルーンに競り勝った。
決勝は宿敵のガーナ。両チーム無得点で迎えたPK戦は12人がPKを蹴るというドラマとなったが、ガーナの12人目バフォーのシュートをGKグァメニーがセーブ。PK戦を11-10で制したコートジボワールが初優勝を飾った。
1993年
米国ワールドカップの予選では、ナイジェリア、ボツワナを抑え第2ラウンドに進み、初の本大会出場を目指している。