賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >vol.26 ドイツ(上)

vol.26 ドイツ(上)


――――――――――
 統一ドイツの問題がテレビや新聞で伝えられ、ドイツへの関心が高まり、ドイツ語の講座が学生に人気が高いという。イタリア’90、世界のトップが集まるワールドカップの大舞台でも、西ドイツはやはり“主役”の一つである。この号が発売される頃には、大会は1次リーグから2次ラウンド1回戦へと移ろうとしている頃だろうが、ベッケンバウアー監督に率いられ、未来を背負う西ドイツ代表チームには大会の終盤まで勝ち残ってほしいと期待しつつ「くに、ひと、あゆみ」の(上)を始めたい。今月のテーマは、私たちになじみの多い指導者たち――。
――――――――――


ドイツ菓子ユーハイムとサッカー

 ドイツは日本サッカーにとっても私個人にとっても、かかわりの深いところだ。
 私たちが神戸でスタートし、今年で20年になる社団法人・神戸フットボールクラブ(KFC)の河本春男会長は、ドイツ菓子で有名なユーハイムの会長さん。ユーハイムという社名は、ドイツ人の創始者ユーハイムさん(故人)の名で、第1次世界大戦のときに中国の青島(チンタオ)にドイツの駐留所があり、そこのドイツ人居留民を相手にケーキを作っていたユーハイム一家が、青島の陥落でドイツ軍人と一緒に捕虜となって、日本に送られ終戦となった。そこで、東京で仕事を始めたところが、関東大震災のために店がつぶれ、神戸に移ったのだった。
 このユーハイム一家、ドイツ軍人の捕虜収容所があったのが広島県の似島(にのしま)。瀬戸内海の小さな島が、今でもサッカーが盛んなのは、ユーハイムさんはじめドイツ人がここでボールを蹴ったからだ。また、当時、彼らとの交流が刺激となって広島市内のサッカーもレベルアップの向上につながったという。
 そんなユーハイムの店を第2次大戦後に引き受けたのが、私のサッカーの先生であった河本さん(東京高等師範・今の筑波大)。先生が神戸のユニークな会社の経営を成功させながら、神戸市のサッカー協会の会長やKFCの会長を務めておられるのを見ると、改めて人のつながりの不思議さ、サッカーの広さを思う。


ベルリン五輪とネルツ監督

 日本にサッカーを伝えたのは、英国海軍の軍人。神戸にも英国人の商社があって、明治20年代からボールを蹴っていた記録があるが、そんな古い時期は別にして、日本のサッカーの成長にドイツの影響はとても大きかった。1930年代のドイツ・サッカーの指導者、オットー・ネルツの指導書は、当時の慶応の選手たちによって翻訳され、慶応のシュート、パス攻撃の理論的支柱となった。
 同じころ、早稲田を主力とする代表チームが、1936年のベルリン・オリンピックに参加し、優勝候補といわれていたスウェーデンを3−2で倒し、“ベルリンの奇跡”と騒がれた。日本を出発してシベリア鉄道の長い旅のあと、本番の試合までに現地の3つのクラブと試合をしたのが非常に役立ったらしい。3試合とも僅差で負けはしたが、欧州のプレーに馴染むことができた。単独のクラブとの試合に3連敗しながら、強敵との本舞台でのゲームに闘志を燃やした選手たちも立派だが、彼らの力を引き出すステップとなってくれた「ヴァッカー」「ミネルバ」「ブラアウ・ヴァイス」の3つのクラブに感謝しなくてはなるまい。

 ベルリン・オリンピックのころ、つまり、今から54年ほど前は、ドイツがようやく欧州の“サッカー強国”の仲間入りを果たそうとしていた時期。その2年前の1934年、ネルツ監督に率いられたドイツ代表は、第2回ワールドカップ・イタリア大会で、1回戦(5−2ベルギー)、準々決勝(2−1スウェーデン)と勝ち上がり、準決勝で当時の欧州3強の一角、チェコスロバキアと戦って敗れた(1−3)。しかし、3位決定戦でオーストリアを破り(3−2)3位に輝いている。
 オーストリア代表は、その前の2年間、26戦して負けたのは僅か2。伝統あるスコットランドをウィーンで5−0と倒し、“WONDER TEAM(驚異のチーム)”といわれるほどの強チーム。この強敵を破っての3位獲得だけに、ドイツの評価、ネルツ監督の名は一気に高まった。


初期のサッカーと第1次大戦

 ドイツへのサッカーの伝来は、ブリテン島に近いだけに早く、1870年代には、すでに北海の港町では英国人の居住者によって、この“遊び”が始まっていた。
 1875年にはオックスフォード大学のイレブンがドイツを訪れ「FAルール」によるフットボールを行なっている。これはFA創立後、ヨーロッパ大陸での最初のデモンストレーションといえる。そのころのドイツは、プロシア王、ウィルヘルム一世が対フランス戦争に勝ち、その勢いをドイツ統一に向けていた。1871年に皇帝に即位した彼は、「4つの王国」「6つの大公国」「5つの公国」「7つの候国」「25の連邦都市」「3つの自由都市」を合わせ束ねたのだった。

 先進の英国に追い付け追い越せの努力は、やがて軍備拡張、領土拡大となって第1次世界大戦(1914〜18年)、そして敗戦の悲惨を招くのだが、この国運隆盛のころに導入された“英国産”のフットボールはドイツ全土に普及し、国際交流も始まった。

 1900年にドイツ・フットボール連盟(DFB)が生まれると、翌年、非公式ながらDFB選抜チームがイングランドを訪問、二試合を行なった。受け入れ側はアマとプロの別々のチームを用意したが、実力の違いは大きく、イングランドのアマチュア選抜に大敗(0−12)。プロ選抜はスコアを10点で止めてくれたが、大きなショックだったに違いない。
 しかし“ゲルマン”は怯みはしない。1908年にはスイスのバーゼル、オーストリアのウィーンに乗り込む。どちらも敗れはしたが、スコアは僅差。1909年はスイスから1勝するまでになる。
 そんなひたむきな努力は、第1次大戦と、それに続く敗戦後の大混乱でしばらく中断したが、やがて、20〜30年代にかけてサッカーが復活し、ネルツ博士のような有能な指導者が現われ、成果を上げたのだった。ネルツは、たびたび英国を訪れ、プロのゲームを研究し、練習方法を調べ、それをもとに、ドイツに適したトレーニングのやり方を考えたのだった。


ゼップ・ヘルベルガーの登場

 ネルツによってスタートを切ったドイツ・サッカーの急上昇は、36年のベルリン・オリンピック、38年のフランス・ワールドカップでは、必ずしも破竹の勢いにはならなかった。しかし、ベルリンでは準々決勝でノルウェーに敗れた(0−2)ものの、1回戦ではルクセンブルクに大勝(9−0)。フランスでは、1回戦でスイスと引き分けた(1−1、再試合2−4で敗退)。サッカーもナチ政権の政策の一つ(ゲルマン人の優秀さを示す)と見ていたヒトラーは不満だったろうが、早くから地域リーグが確立していたドイツでは、代表選手の選考や合同練習には、かなり苦労をしたらしい。
 ただし、この頃の幸運は、ネルツの後継者に、若くて才能豊かなコーチ、ゼップ・ヘルベルガーが現れ、36年から協会専属の代表チームのコーチとなったことだ。

 ヒトラーの始めた第2次大戦中もサッカーは続けられた。いや“第三帝国”の拡張によって、ポーランドやオーストリアなどのクラブがドイツ選手権に参加するといった現象もあった。映画“勝利への脱出”は、ドイツに捕えられた連合国側の捕虜が、英国のプロ選手を中心にチームをつくり、ドイツチームと試合をするという設定になっていた。ペレやアルディレス(アルゼンチン)なども出演したから、ご記憶の向きもあるだろうが、この時代を背景にしたものだった。
 1943〜44年(昭和18〜19年)シーズンまで地域リーグも行なわれていた。つまり、ドイツが降伏する1年前までサッカーが行なわれていた。そして、国土が戦場になるとともに中止、以後、3年間は中断期間となったが、この再開、再建期にヘルベルガーが大きな力を発揮する。


復興はまずコーチ育成から

「一人のコーチが百人を育て、百人のコーチが、それぞれ、百人を育てれば、ドイツのサッカーは復興する」

 46年FIFA会議で、DFB(ドイツ・サッカー協会)は5年の加盟取り消しとなった。この孤立の時代にヘルベルガーは、ドイツ・サッカーの復興は、まずコーチの育成から――と強調した。100人のコーチが100人を育てれば1万人になる。そして、1万人の優秀なコーチが、それぞれ100人のプレーヤーを育てれば、ドイツ・サッカーは復興できる――という有名な言葉は、ドイツ・サッカーだけでなく、ドイツ人の考え方、基礎固めにまず努力する姿勢を表している。

 ソ連占領下の東ドイツが、はっきりと西ドイツと分かれ、サッカーも「ドイツ民主主義共和国」の協会が生まれた。かつての大ドイツ帝国からみれば、西ドイツは小さな国になったが、ドイツ・サッカーの正統を継ぐものとして、コーチたちの意欲は衰えなかった。そして、50年のFIFA会議は西ドイツの国際試合への復帰を認めた。同年、スイスとの親善試合も行なわれている。
 52年のヘルシンキ・オリンピックに登場した西ドイツは、1回戦でエジプトを破り(3−1)、準々決勝でブラジルを倒し(4−2)てベスト4に進出。しかし、準決勝でユーゴに敗れ(1−3)3位決定戦でもスウェーデン(48年の金メダル)に負けた。この大会では、ハンガリーの素晴らしいプレーが最大の話題となったが、西ドイツの復活も大きな拍手で迎えられた。


54年ワールドカップ優勝 ヘルベルガーの戦略

 ヘルベルガーの野望は、2年後の54年、スイスでのワールドカップにあった。彼が30年代の終わり頃に目をかけていたフリッツ・ワルターは、大戦中、パラシュート部隊にいたが無事に復員し、自分たちのクラブ、カイザースラウテルンの2度のチャンピオン(51・53年)に貢献していた。すでに33歳だったが、彼の卓越したボールプレーと戦術眼、パスの能力はチームの要だった。
 ローザンヌ、ジュネーブ、チューリッヒ、ベルン、バーゼルの5都市を会場にしたこのスイス大会で、西ドイツは1次リーグは2組に入り、ハンガリー、トルコ、韓国と一緒になった。総当たりのリーグではなく、各チームが2試合を行ない、上位2チームが準々決勝へ進むことになっていた。

 まずハンガリーが韓国を9−0、西ドイツがトルコを4−1で破った。次いで、ハンガリーと対戦した西ドイツは、レギュラーの半数以上を休ませ、相手の手の内を読むことだけに専念し、3−8で敗れる。1次リーグ最終戦でトルコが韓国に勝ったため、この組ではハンガリー2勝、西ドイツ1勝1敗、トルコ1勝1敗、韓国2敗の順となった。
 西ドイツは2組2位を決めるためのプレーオフでトルコと再戦して勝ち、準々決勝はユーゴ、準決勝はオーストリア、スイスの勝者という、比較的やりやすい欧州チームの固まっているゾーンに入る。そして、計算どおり西ドイツは決勝に進出し、ハンガリーと再び顔を合わせた。
 準々決勝でブラジル、準決勝でウルグアイという南米勢と当たり、大激戦を勝ち抜いてきたハンガリーにとって、雨のベルリンでの試合はかなりハンディだった。西ドイツはワルターを中心とした、ものすごい闘志と動きで3−2とハンガリーを退け初優勝。ハンガリーの優勢を信じて疑わなかった世界中のファンを驚かさせ、ヘルベルガーの“戦略”は、敗戦後10年のドイツ人に大きな喜びを与え、この優勝が、彼らのサッカーの進展に大きなステップとなった。


シェーン監督とベッケンバウアー

“ヨーロッパの強国”は、54年の優勝で“世界の強国”となった。以来、西ドイツはワールドカップの地域予選は必ず突破し、スウェーデン大会(58年)/4位、チリ大会(62年)/ベスト8、イングランド大会(66年)/準優勝、メキシコ大会(70年)/3位、西ドイツ大会(74年)/優勝、アルゼンチン大会(78年)/ベスト8、スペイン大会(82年)/準優勝、メキシコ大会(86年)/準優勝と、本大会では最低でも1次リーグを勝ち抜いてベスト8入り、常に上位に入るという安定した成績を残している。54年を含めて5度のファイナリストは例のない記録だ。中でも、イングランド大会から連続して準優勝、3位、優勝と輝いた8年間は、西ドイツの黄金期だった。

 その絶頂期は、ヘルベルガーの弟子ともいえるシェーン監督と、ベッケンバウアーというスーパースターが中心となって築いた。
 シェーン監督が代表監督となって、イングランドのワールドカップに登場したとき、ベッケンバウアーは21歳。長身でボールタッチ抜群のスリムな若者は、将来性を期待されながら、あまりにも淡々とした態度のプレーに物足りなく思うファンもいた。彼よりも少し年長の、ウベ・ゼーラーの果敢なダイビング・ヘッドという看板だけでなく、常に全力をつくす姿勢(そのことがファンにわかりやすい)とよく比較されたものだ。
 しかし、試合全体の流れを読み、長短、強弱、自在のパスを右足から繰り出すベッケンバウアーは、自分のポジションを中盤から攻撃を組み立てるMFのゲームメークから、チームの最後尾にいて、守りの組織から攻撃の第一歩という、チーム全体、試合の流れ全体を握るリベロを確立することによって、代表チームそのものを完成に導いた。ネッツァーやオベラートという秀れたMF、ゲルト・ミュラーのようなゴール前での得点職人といったポジション・プレーの名手を集めて、ひとつのチームに仕上げたのが74年の優勝チームだったといえる。

 63年にブンデスリーガを発足させ、全国リーグとフルタイム・プロフェッショナルの導入に踏み切ってから約10年、第2次大戦後、ざっと30年で西ドイツ・サッカーは、74年の二度目のワールドカップ獲得、一人の天才的選手とその仲間の最盛期を迎えたのだった。
 といっても、74年の地元・西ドイツ大会の優勝は決して楽なものではなかった。開催国としての期待は、マスコミの過激反応となり、それがチームへの圧迫ともなった。この大会から導入された商業主義は、より大会を華やかにしたが、同時にプロフェッショナルのプレーヤーには、絶えず金の話がちらつく環境でもあった。
 選手たちの試合報酬の要求をまとめ、DFBとかけ合うのもベッケンバウアーの仕事だったし、監督とトレーニング・メニューを話し合い、試合メンバーの起用について意見を述べるのも大切なことだった。
 そんな雑音の多い1次リーグで、まずチリに辛勝(1−0)格下のオーストラリアに楽勝のあと、東ドイツに敗れる(0−1)という波乱もあった。力の違う相手に攻めながら点を取れず、カウンターで一発やられるというケースだったが、この敗戦でチームの気分はかえって高まり、2次リーグは“強さ”の出る試合となった。

 2次リーグの相手がユーゴ、スウェーデン、ポーランドの欧州勢で、南米のブラジルや強敵オランダと同じ組に入らなかったのも、チームの建て直しにはよかったのかもしれない。
 2次リーグで西ドイツの調子が上がったといっても、決勝の対オランダ戦は、圧倒的にクライフ軍団優勢の前評判だった。
 私が泊まったミュンヘンのペンションのオヤジさんに聞かれて「今日はドイツが勝つんじゃないか」と私が答えると、彼はキッチンに駆け込んで、夫人にKAGAWAはドイツが勝つと言ってくれた――と大声で叫んだほど。すべてのドイツ人が心配気にキックオフを待っていたのだった。

 ゲームはオランダの“不運”といった場面もいくつかあり、GKマイヤーの奇跡的なセービングやDFの堅守もあったが、この90分に関する限り、堂々たる西ドイツの勝利だったし、それを支えたベッケンバウアーのすごい意志と各局面のプレーは、誰もが忘れられないものだった。


ベッケンバウアーとフォクツ

 ベッケンバウアーと、その仲間が代表から去ったあと、78年のアルゼンチン大会は、チャンピオンの看板を背負ってシェーン監督には苦しい戦いだった。彼はこの大会を最後に代表監督のバトンをデュアバルに渡した。長くシェーンのもとでDFBのコーチを務めていたデュアバル監督は、日本の釜本選手が68年1月に単身、西ドイツへ留学したときに面倒をみてくれた、もう一人の日本の恩人。彼は82年のワールドカップで、故障の多かったチームを、ともかく準優勝に導いた。しかし、84年の欧州選手権の不振で代表監督を退き、そのあと、ベッケンバウアーが代表チームの指揮をとることになった。

 クラブチームの監督経験もなく、コーチのライセンスも持たないベッケンバウアーだったが、かつての代表チームの仲間だったフォクツとともに、86年のメキシコ・ワールドカップでは、チーム強化に驚くほどの成果をあげた。体力を強化してコンディショニングの調整を重視し、メキシコの高度のハンデを克服して広く鋭い動きを持続させた。得点力に乏しいため、決して華やかさはなかったが、その守りの確かさと一人ひとりの粘りは、見ているものの胸を打つ「ひたむきさ」があった。

 そんなベッケンバウアーの陰の参謀役が、デットマール・クラマーだった。60年から日本サッカーを指導し、東京、メキシコ両オリンピックへの準備の8年間に、日本代表チームの向上に力を借したクラマーは“スコラー(学者)”と呼ばれる豊富な知識と分析力で西ドイツの戦術に有効なアドバイスをしていた。
 もともと、ゼップ・ヘルベルガーの下で、シェーンと兄弟弟子であったクラマーは、まことに経験豊富で、ベッケンバウアーが代表選手としての成長期から立ち会い、バイエルン・ミュンヘンの監督として、ともに欧州の王座に就いている間柄。ベッケンバウアーが、そのアドバイスをよりどころにしたのも当然だった。
 こうした二人三脚で86年のワールドカップを乗り越えたベッケンバウアーは、今度は6年間の経験の上に立ったチーム作りでミラノに乗り込んで来た。

 彼が率いた前回の代表は、ルムメニゲ、ブリーゲル、K・H・フェルスターといった80年の欧州選手権、82年のワールドカップ組が主力だったが、今回はそれらが去り、88年の欧州選手権からの新しいチーム。若い技術のあるプレーヤーが伸びてきているのと、チームの中心マテウスが安定してきているので、欧州の専門家の間で優勝候補の一つに挙げられている。
 彼らがドイツの伝統と粘り、不屈、そして、労を厭わぬ動き、これに新しいプレーヤーのボールテクニックの高さが加われば、久しぶりに“安定”の上位でなく“エキサイティング”なベッケンバウアーの現役時代のような試合ぶりが見られるかも知れない。


(サッカーダイジェスト 1990年8月号)

↑ このページの先頭に戻る