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vol.28 ドイツ(中)


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“サッカー、くに、ひと、あゆみ”は、8月号からドイツ編です。(上)はドイツ・サッカーの歴史を紹介し、9月号では番外編としてイタリア’90のセカンドラウンド1回戦のハイライト3試合をレポートしました。今回は世界チャンピオンとなった西ドイツ代表チームの戦いぶりを振り返りながら、もう一度、こうしたチームを生み出す背景を考えてみたいと思います。
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90年イタリアW杯 1次リーグ最終戦対コロンビア

 1次リーグが終わったところで、西ドイツは2勝1分け(得点10、失点3)で開催国イタリア(3勝、得点4、失点0)やブラジル(3勝、得点4、失点0)とともに、最も安定した戦いぶり。特に得点への意欲が強く、試合はエキサイティングでスペクタクルだった。
 特に第3戦の対コロンビアは、すでに2勝して、2次ラウンド進出が確定したあとの試合であり、また、左サイドの攻撃を担うブレーメが欠場(イエローカード2枚)というハンディもあったが、ディフェンシブな相手に対して徹底的に攻め続けた。

 イギータという異能のGKを持ち、彼の前進守備でDFラインの背後を防ぐとともに、オフサイド・トラップを多用するコロンビアの守りには、相手チームは困惑する。さらに、困惑する相手に対して、ボールを後方でまわし、GKイギータとDFとの間でもパスを交換しては時間をかせぎ、気持ちをさらにイラだたせる。
 コロンビアの一人ひとりのボールの持ち方は、ブラジルやアルゼンチンなどより、むしろ南米の香りをより強く残している感じがあり、その独特のリズムは、まるで相手をからかっているようにも見えた。

 こうした滑稽ともいえるコロンビアの守備ラインに対して、西ドイツはフェラーがスルーパスを通すのでなく、ドリブルで崩した。それも、ドリブルでラインを突破するのではなく、守備ラインとほぼ並行に(右から左へ)ドリブルし、左サイドのリトバルスキーに短いパスを送る。リトバルスキーはこのボールをドリブルでペナルティエリア内に持ち込み、そのまま左足のシュートを決めた。
 このとき、タイムはすでに88分。コロンビアの選手たちはショックで、フィールドに倒れたり、うずくまったりしたが、タイムアップ直前にカウンターに出て、リンコンが同点ゴールを決めたのだった。


常に全力をあげてゴールを奪う

 この1次リーグ第3戦で、西ドイツはチームの立ち場を計算しながら試合を進めるのでなく、常にゴールを奪うことを第一としていることを示した。
 90分のうち、80分を0−0で過ぎれば、コロンビアは必要な「引き分け」を狙って、ますますディフェンシブになる。普通なら、西ドイツもまた(勝ちに行く必要は計算上ない)0−0で満足していいわけだが、今回のチームはそうでなく、あくまでも冒険をしたのだった。しかも、1−0とリードしてからも守りに入るのではなく、なお、もう1点を取ろうと攻めに行って、フェラーがドリブルのボールを奪われ、そこからカウンター・アタックを喰ったのだった。

 UAE(アラブ首長国連邦)のような格下のチームにも、全力をあげてゴールを奪い(5−1)、ユーゴのように個人技の優れたチームには、中盤で徹底的にプレスディフェンスを敷いて、そのボールテクニックを発揮する機会をなくす。こうした積極性がコロンビアとの1−1によく表れていた。


90年イタリアW杯 オランダ戦、欧州チャンピオンとの対戦

 2次ラウンド1回戦は、今大会を象徴するかのようなビッグな対決があった。特に南米同士のブラジル対アルゼンチン戦、欧州の強豪同士の西ドイツ対オランダ戦は、アルゼンチンとオランダが、それぞれB組、F組の3位という予想外の成績となったためにできた組合せだった。

 その対オランダ戦は、西ドイツにとって、今大会のもっとも重要な試合の一つとなった。
 88年の欧州チャンピオン、オランダは、エースのフリットが1シーズン戦列から離れていたのが、ようやく復帰し、1次リーグ3試合で、徐々に調子が上がってきていた。彼の回復とともに、チームもまた上昇機運にあった。
 6月24日、ミラノで行なわれたこの試合は、ワールドカップ史上でも歴史に残る重要で、ハイレベルなものとなるハズだった。

 西ドイツは、GKイルクナー、DFの両サイドを右にロイター、左にブレーメを配し、中央をリベロのアウゲンターラーと、2トップをマークするコーラーとブッフバルト。1次リーグでは温存(?)してあったコーラーがスタメン出場。FWの、いわゆる2トップはフェラーとクリンスマン。DFとFWをつなぐMFはマテウス、リトバルスキー、ベルトルト。
 緊迫感があって、しかも北ヨーロッパ勢同士のスケールの大きい展開になるハズだったこの試合は、スタート時は期待どおりにフリットもよく働き、ファン・バステンもパスを出し、西ドイツもまた、シャープな動きで攻め込んだ。しかし、西ドイツのフェラーとオランダのライカートの2人が、レフェリーに退場処分を喰って形勢が大きく変わった。

 20分にライカートがフェラーにタックルしてイエローカードを出されると、ライカートはフェラーと口論し、このため、フェラーにもイエローカードが出された。次いで西ドイツが攻め込み、オランダGK、ファン・ブロイケレンがセービングしたとき、突っ込んでいったフェラーがもつれ、そこでまたライカートと口論。今度はレッドカードを出されてしまい、2人とも痛恨の退場となってしまった。
 この“退場”までに、オランダはビンターが、ゴール前のクロスをきわどく捕えそこなったチャンスが二度あり、そのうちの一つは、フリットが見事なターンで西ドイツのDFを振り切ったプレーから生まれたものだった。
 いわば、ややオランダ優勢で進んでいたゲームだったが、ライカートがいなくなってからは、しだいに西ドイツのペースとなっていった。


90年イタリアW杯 オランダ戦のビューティフル・ゴール

 試合前、この両者の対決についての予想を聞かれたとき「60分勝負ならオランダに利があるが、サッカーは90分だから、今回は西ドイツ有利」と答えていた。オランダがベストメンバーであったとしても、時間の経過とともに、西ドイツの動きの量と速さが、オランダを苦しめるだろうと考えていたからだ。

 それが10人ずつになって、走るスペース、パスの通るスペースが広がると、さらに西ドイツの強さが表れ出した。
 後半開始後すぐに、マテウスがクリンスマンからのクロスをヘディングシュート。しかし、このシュートはGKファン・ブロイケレンが懸命に防ぐ。そのすぐあと、ブッフバルトが左へ攻め上がり、ライナーで中へパス。今度はクリンスマンがこのボールを左足で鋭く蹴って、ボールの角度を変えて貴重な先制点を挙げた。
 早いライナーに、瞬時に合わせたビューティフル・ゴールに、西ドイツの士気はいっそう高まった。
 2点目も左サイドの攻めからで、84分にCKを競ったブッフバルトがこぼれ球を自分で拾い、それをうしろのブレーメにパス。ブレーメは中へキープして、カーブをかけた右足シュート。ボールはファーポスト内側に吸い込まれていった。
 西ドイツは、タイムアップ直前にコーラーのファン・バステンへのファウルのため、PKで1点を失うが、大勢に影響はなく、2−1で欧州チャンピオンを倒してベスト8に進んだのだった。

 この試合でファン・バステンを封じたコーラーは、2次ラウンドをリベロのアウゲンターラーと、もう一人のストッパー、ブッフバルトとともに最終DFラインを構築する。
 リベロと2人のストッパーを置くDFは、86年のW杯で優勝チームのアルゼンチンが用いた守りのシステム。両サイドのDFも守りに加わる5(DF)・3(MF)・2(FW)あるいは、両サイドバックがMFのように前進する3(DF)・5(MF)・2(FW)と、相手に応じて変化するが、このビラルド監督の守りは、南米ブラジルをはじめ、ヨーロッパでも採用するところが多かった。
 西ドイツは左のブレーメ、右のベルトルト(またはロイター)がMFのように前線に攻め込み、リトバルスキー、マテウスらを助ける。特にブレーメは、突進しながら左足で深いクロスを出せるだけでなく、切り返しての右足シュートもうまい。


アンドレアス・ブレーメ  ブレーメを私が初めて見たのは、84年の欧州選手権。60年11月9日生まれの彼が23歳のときだった。この大会で、西ドイツはリーグ戦での疲れがとれていなく、また、合同練習も不足していて、開催国フランスがプラティニを中心に破竹の勢いで勝ち進んで行くのに対して、82年W杯準優勝、80年欧州選手権優勝の実績とはウラハラの試合ぶりだった。

 そんなまとまりのない西ドイツの中で、背番号7を付けたブレーメ一人が目立っていた。
 ハンブルク生まれのブレーメは4歳のころ、バルマークというクラブのマネージャーを務める父親からサッカーの手ほどきを受け、5歳のときにはハンブルクと父のクラブとの親善試合で、あの偉大なウベ・ゼーラーと並んでキック・オフさせてもらっている。
 20歳でザールブリュッケンに入り、次の年にカイザースラウテルンに移る。ナショナルチーム入りが84年2月。そして、86年にはバイエルン・ミュンヘンへ。ここでリーガ優勝とスーパー・カップ優勝の2つを手中にし、次の年にインター・ミラノに移って、ますます技術に磨きをかけた。
 86年のメキシコW杯準決勝の対フランス戦では、マガトのFKからの短いパスを受けて、ブレーメがダイレクトシュート。プラティニらフランスの野望を砕き、西ドイツの決勝進出のもとをつくっている。今大会の第1戦、対ユーゴ戦でも左サイドからのクロスでチャンスをつくり、左で蹴るとみせかけて切り返し、中へ持ち込んで右足のシュート(GKがファンブルしてフェラーがプッシュ)で4点目を引き出している。ブレーメは身長176センチと、決して大きくはないが、正確なキックを武器に檜舞台に昇ってきた。
 オランダは彼のシュート力を警戒して、FWのファントシップをマークにあて、また、イングランドはパーカーを、アルゼンチンはトローリオをブレーメのマーク役にしたほどだった。


90年イタリアW杯 チェコ戦、イングランド戦

 オランダとの戦いで、さすがに体力も気力も消耗した西ドイツだったが、準々決勝の対チェコスロバキア戦も無難に乗り切る。
 得点はクリンスマンの突破から生まれたPKをマテウスが決めた1ゴールだけだったが、チェコのヘディングの名手、スクラビーを完封し、危なげない勝ちっぷりだった。
 むしろ、ピンチは次のイングランド戦。この試合、リトバルスキーが足の故障のために欠場。また、フェラーが前半に足を痛め、リーデルと交代するといったアクシデントもあったが、特にイングランドの守りのうまさが目立った試合だった。
 ただし、ここでもブレーメは、パーカーのマークに手を焼きながらも、FKから先制点を叩き出す。シュートコースに入ったパーカーを避けることなく、思い切りよく蹴ったシュートがパーカーの足に当たって方向が変わり、GKシルトンの頭上を越えてゴール内に落下した。ラッキーともいえるが、ブレーメの強い意志のこもったシュートだった。
 1−1のあとのPK戦でも、ブレーメは西ドイツ側の第2キッカー。イングランドの第2キッカーがリネカーであることを考えると、ベッケンバウアーが、それだけブレーメのシュートを買っているかがわかる。


90年イタリアW杯 対アルゼンチンの積極策の勝利

 決勝の相手がイタリアでなくアルゼンチンだったのは、誰もが意外だったろう。しかし、西ドイツにとって、イタリアは、82年のスペイン大会で敗れた相手。アルゼンチンとの決勝は、前回のメキシコ大会の再現だから、どちらにしても大きな意味があった。82年、86年の西ドイツ代表の中核をつくっていたGKシューマッハー、DFのK・フェルスターやブリーゲル、FWのルムメニゲが退き、84年の欧州選手権でブレーメとともに代表に加わった、ブッフバルト、フェラー、さらには82年からのマテウス、リトバルスキーら、つまり、60〜61年生まれの世代が完熟期を迎えていた。そして、テクニシャンのヘスラー、ストライカーのクリンスマンら新しいメンバーを加え、チームは86年の当時とは大幅に戦力アップしていた。
 だから、相手がたとえブラジルを“魔術”で倒し、イタリアに“催眠術”をかけたマラドーナのアルゼンチンであっても、ベッケンバウアー監督と、フォクツやマイヤーたちのコーチ陣は自信満々だった。

 試合は全く西ドイツの一方的なゲームとなった。カニーヒア、オラルティコエチェア、ジュスティ、バティスタらが試合に出られないアルゼンチンは、ビラルド監督の徹底した守備作戦以外にはなかったろう。彼らは、ともかく無失点で時間を過ごし、チャンスにマラドーナの“神業”を期待するだけだった。
 ビラルド監督の守備計画の綿密さは、スタンドの上から見ていて、なるほどとわかるほど徹底していた。フェラー、クリンスマンの2トップへのマーク、ブレーメ、ベルトルトの両サイドへの警戒。その警戒網が崩れそうになると、相手の第2列への牽制――といった具合に組まれていた。
 しかし、そんな固い守りのアルゼンチンに、西ドイツは強いパンチを浴びせた。得点にはならなかったが、執拗な攻めは繰り返され、90分間にシュート16本、クロス30本がアルゼンチンゴール前を飛び交った(アルゼンチンの攻めは、シュート1本、クロス7本)。ファウルが増えるのは、気持ちが追い込まれてくるからであり、そのファウル多発の流れが、ついにPKの判定を生み出したのだった。

 イタリアは1点のリードでMFのプレスディフェンスを止めてしまった。余裕を持たせれば南米のプレーヤーのボールテクニックは生まれてくる。ましてや、マラドーナがいれば…である。
 ブラジルは攻め疲れ、焦りはじめて、マラドーナのボールキープに4人も集まって、一番危険なカニーヒアをノーマークにしてしまった。
 西ドイツは、そうした失敗をみせなかった。
 今大会で一番強く感じるのは、西ドイツは自分たちのやり方、西ドイツのサッカーを基礎からきちんと創り上げ、それを世に問うたことだ。
 54年スイス大会での西ドイツ優勝は、ゼップ・ヘルベルガー監督の“戦略”による勝利だった。88年スペイン大会の準優勝は、主力の不調の中で、守り重点で決勝までたどりついた。そして、前回のメキシコ大会は、82年よりはよかったが、守備で勝ち残ったことには変わりなく、また、名手ルムメニゲは一度も盛期の調子を発揮することなくW杯を終わったのだった。


90年イタリアW杯 リーダー、ローター・マテウス

 今大会は、マテウスというチームの核がベストの状態でプレーできたのをはじめ、多少のケガはあっても、全員がいいコンディションで試合に臨むことができた。
 クリンスマンという急速に伸びたストライカーをはじめ、見事に返り咲いたリトバルスキー、彼の後継者となる小柄なドリブラーのヘスラー、リベロも、サイドからの攻めもできるベルトルト、突如として、DFラインからの攻撃に出て行くブッフバルト、目立たないが、タレントたちをうまくつなぐバイン、新しい右サイドのロイター、そして、最終DFラインをまとめたアウゲンターラーと、ストッパー専門家というべきコーラー。いろんな個性を、その役柄に応じて使い分けることができた。

 74年のW杯チャンピオン、72年の欧州チャンピオンだった黄金期のチーム・リーダー、ベッケンバウアーは、ドイツの伝統的な考え方の“チーム・リーダー”をマテウスとして、彼にすべてを託した。
 86年のメキシコW杯で、すでにリーダー的な資質のみえていた彼は、チームを勝つために引っぱるだけでなく、相手チームへも配慮できるチーム・リーダーとなっていた。オランダ戦のあと、フリットを慰め、コロンビア戦では、ケガの治療を終え、フィールドに戻るパルデラマをタッチラインまで迎えに行って肩を組んで歓迎した。
 優勝を逃し、涙を流すマラドーナの肩を抱いているマテウスの姿は、ときにトゲトゲしくなった大会の中で、さわやかな涼風といえた。

 決勝・アルゼンチン戦のPKをブレーメが蹴ったのは、彼の親友であるマテウスの指示。自分が蹴ろうと思ったが足を痛めている。そこで、彼ならきっとやってくれるとブレーメに託したのだった。


90年イタリアW杯 イタリア組の効果

 マテウス、ブレーメ、クリンスマンはインター・ミラノ、そして、フェラーとベルトルトはASローマと、西ドイツ代表の5人がイタリアで活躍している(90−91シーズンからは、この5人に加えてヘスラーがユベントス、リーデルがラツィオでプレーする)。
 世界一といわれるセリエAでプレーを磨いたことが、ドイツ代表チーム全体のレベルアップにもつながったことは間違いないが、こうしたバラエティに富んだプレーヤーを生み出すドイツ・サッカーの土壌の大きさ、広さをいまさらながら感じる。
 ドイツのサッカーは、テキストどおりでおもしろくない…などの批判もあるようだが、このレベルに到達するのはたいへんなことだし、また、同じようなやり方であっても、違う個性〜ボールを離すタイミングは人によって違う――を組み合わせることによって、世界のトップに立つチームを生み出す。
 そうした余裕のある考え方ができるところに、ドイツという国、ドイツのサッカーのよさがあるように思える。

 デットマール・クラマー以来、ドイツやドイツ・サッカーは、私たちに身近な存在であるハズなのに。さて、実際には日本の現状と比べてみると、随分違っている。
 そのドイツが、いよいよ政治統合で、次のヨーロッパ選手権の予選からはドイツ一本のチームが参加することになるという。彼らが新しい波をいかに計画的に、巧みに利用するか見てみたいものだ。


(サッカーダイジェスト 1990年10月号)

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