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チョー・ディンもクラマーもW杯招致も。黎明期から重要な布石を打ち続けたドクター 野津謙(上)

チョー・ディンもクラマーも

 大正の末の日本にサッカー技術の文明開化をもたらしたビルマ(現・ミャンマー)人、チョー・ディン(2007年5月号掲載)を語れば、次はその一番弟子ともいうべき鈴木重義さん(故人)――あの1930年(昭和5年)の極東大会、36年のベルリン・オリンピックという2大会で大実績を挙げた日本代表の監督に移るのが歴史物語の順序ですが、今回は鈴木さんより5歳ばかり年長の野津謙(のづ・ゆずる)日本蹴球協会(現・日本サッカー協会=JFA)第4代会長を振り返りたいのです。
 この連載で、今年の3、4月号に掲載した新田純興さんと同世代で、東京帝国大(現・東京大)が昭和初期の日本サッカーのリーダーとなるのに力を尽くし、戦前の名物でもあった“インターハイ”、全国高等学校(旧制)蹴球選手権大会を自身が東大4年生のときに開催を提唱し、実行したのが野津さんです。
 チョー・ディンに習った鈴木重義さんたち早稲田高等学院(早高、早大の予科)が、この第1回大会に優勝したことで、ビルマ人の指導力が評価され、全国各地から指導を頼まれるようになったいきさつは、前号でもお話しましたが、その間接的な仕掛け人が野津さんだったのです。
 この稿を書き始めようとしているときに、アビスパ福岡から連絡がありました。5月19日のJ2の九州ダービー、アビスパ対サガン鳥栖をサッカー・フェスティバルで盛り上げることになり、監督がリトバルスキーという縁もあり、ドイツからデットマール・クラマーを招いて、トークしょーを行なう企画があることを知りました。
 クラマーについては、この連載で何度も触れ、日本サッカーミュージアムの“殿堂”にも“掲額”されている功労者――私自身も1960年(昭和35年)以来、47年間、互いに80歳を超えた今も、なお彼に会えば啓発されることが多く、そのたびに、あの時代に来てくれたコーチがクラマーその人であったことの幸いを思います。
 そのクラマーに最初に会い、この人と決めたのが当時JFA会長だった野津さんであるのは有名な話です。
 黎明期から発展期の日本サッカーの2人の外国人コーチによる革新に関係したこの先達の生涯を、あらためて眺めることは、私のように長居記者生活を経た古ダヌキにも、感慨がわくものです。


1959年アジアユースの喜び

 FIFA(国際サッカー連盟)でも、AFC(アジアサッカー連盟)でも、野津さんは尊敬を込めて「ドクター・ノヅ」と呼ばれていた。もちろん、医師という職業からでもあるが、正直で、清潔感のある人柄が、当時のサー・スタンリー・ラウスFIFA会長や、トンク・アブドラ・ラーマンAFC会長たちにも信頼されていた。私が初めて野津会長に会ったのは、1959年(昭和34年)の第1回アジアユース大会に、日本代表の高校選抜チームと同行したときだった。この大会は今も続いて、ワールドユースのアジア予選となっているが、当時は世界的なつながりはなく、後進地、アジアのサッカーの向上のためにと、野津さんの意見をラーマン会長がくみ上げて、58年の第3回アジア大会(東京)での会議で決定し、次の年からスタートしたのだった。
 東京でのアジア大会で1勝もできずに1次リーグで敗れた日本にとって、若年層の強化の一つとなるこのアジアユースは大きなプラスとなった。東京、メキシコ両オリンピックの日本代表が、このユース大会から育ったことを考えると、一番得をしたのは日本だったかもしれない。
 このときのチームに杉山隆一や宮本輝紀といったいい素材があったこと、高橋英辰(ロクさん)という経験豊かな監督であったことなどで、韓国、マレーシアに次いで3位になったのだが、この銅メダルを最も喜んだのが野津さん。ここから再出発できると、小野卓爾理事長(故人)に、選手一人一人に記念となる賞を贈ってくれと指示したのだった。その小さな楯を見るたびに、60歳であった会長が、好成績を喜ぶ純真さと、その喜びを少年たちに伝えようとする気持ちの強さを感じたものだ。


広島一中、一高、東大の秀才コース

 野津さんは1899年(昭和32年)生まれだから、大げさにいえば、19世紀の人。99年といえば、日清戦争(明治27〜28年)に勝ち、次の日露戦争(同37〜38年)までの国運の進展と、ロシアとの緊張関係の続くころだった。といえば、野津という苗字から日露戦争での日本の将軍、野津道貫(みちつら)の名を連想されるかもしれない。伝え聞くところでは、その家系のようだが、父君もまたドクターであった。
 広島に生まれ、広島中学(後に広島一中、現・国泰寺高校)に進んだのが、明治も末の1911年(明治44年)。サッカーの名門中学となる広中に13年(大正2年)に蹴球部ができて、ようやく根を下ろそうとしていた。ボートも漕ぎ、サッカーではフルバックだった。
 勉強がよくできて、天下の秀才が集まる第一高等学校(一高)へ進学。一高にはまだ蹴球部はなく、一番威張っていたのがボート部で、野津さんはここでもボート部に籍を置いたが、そのうちに学内でボールを蹴るようになる。2年生のとき(大正6年)に、日本サッカー史上の画期的事件、東京・芝浦での第3回極東大会への日本代表(東京高師が主力)の出場があった。2戦2敗だったが、初の国際試合は大きな反響を呼ぶ。東京にいて、身近にそれを感じた野津さんの蹴球への熱が強まったのはいうまでもない。
 ドクターを目指し、東京帝大に進んだのが1919年(大正8年)。大学内では、名古屋の第八高等学校(八高)出身者の集まりがあって、この年に東京で開かれた第1回関東大会の招待試合に、八高OBによる東大が参加したが、野津さんたち、ほかの高校出身者が加わるようになって、実質的な東大チームが第3回大会に参加した。
 熱中する東大生を周囲は見逃さない。1921年(大正10年)の第5回極東大会(上海)の日本代表選考会のために、全関東が編成され、高師や師範学校卒の選手に東大・野津も加わる。上海では2戦2敗。実力の違いを見せつけられた。


大学リーグ、インターハイの創設

「このときの悔しさが忘れられず、サッカーに打ち込むようになった」と後に野津さんは語っている。
 ボート部で今でいうフィジカルフィットネス、いわゆる身体の鍛錬とチームワークの向上について、一家言を持っていた野津さんは、技術、戦術の向上に目を向けるだけでなく、そのためのリーグや大会の組織づくりをも企画した。イングランドなどにならってリーグを関東の大学の間でつくること、そして帝国大学に集まってくる高等学校の全国大会をつくって、この世代のレベルアップ、ひいては東大の実力向上を図った。前者は関東大学リーグ、後者はインターハイとなって実現し、戦前の日本サッカーを支えるビッグイベントとなった。
 それまで東京高師―各地の師範学校という教育系の学校を通じて、中学校へ浸透し始めたサッカーが、関東、関西の大学リーグとインターハイによって、今でいうU−21、23と年齢の高いクラスにまで及び、ここから日本全体の急速なレベルアップにつながるのだった。
 インターハイの効果は、また東大の強化につながり、第1、2回のインターハイ決勝に残った山口高校から竹腰重丸、第1回優勝の早高に鈴木重義といった、野津さんの次の世代のリーダーが現れてきた。
 その後輩たちによって、1930年(昭和5年)の極東大会での1位、36年のベルリン・オリンピックの対スウェーデンでの逆転勝利と、戦前の栄光が生まれたが、大戦のために日本サッカーは再出発することになる。
 その困難な時期に、野津さんはリーダーとなって立ち向かった。


野津謙(のづ・ゆずる)略歴

1899年(明治32年)3月12日生まれ。
1911年(明治44年)広島中学(22年から広島一中、現・国泰寺高校)に入学。3年生のころからサッカー部に。
1916年(大正5年)第一高等学校(一高)に進学。
          一高にはまだサッカー部がなく、ボート部に入る。サッカーへの思いを忘れられず、同好の士とゴールポストを立て、ボールを蹴る。
1919年(大正8年)東京帝国大(東大)に進み、黎明期の蹴球クラブを発展させる。
1921年(大正10年)5月、上海での第5回極東大会に参加。日本代表(全関東)のHBとして、対フィリピン(1−3)対中華民国(0−4)に出場して実力の違いを体験した。
1923年(大正12年)1月、全国高等学校(旧制)蹴球大会(インターハイ)を東大主催で開催。野津さんが提唱し、実現したこの高校大会は、大戦後の学制改革でなくなるまでスポーツ界のユニークな大会として注目され、官立(国立)大学のサッカーのレベルアップに貢献。また、この年、東大主唱で大学リーグを発足した(翌24年、第1回関東大学リーグ開始)。
           3月、東大医学部卒業。
           4月、医学部血清化教室(大学院)へ。
1927年(昭和2年)東大医学部小児科教室へ(31年4月まで)。
           5月、JFA理事。
1928年(昭和3年)鈴木重義と共著『ア式蹴球』(アルス運動叢書)出版。
           アムステルダムのFIFA事務局を訪問して、加盟を申請。
※1929年以降は次号掲載


★SOCCER COLUMN

『ア式蹴球』と小学生サッカー
 日本サッカー協会(JFA)の初代会長、今村次吉が東京高附属小学校の生徒であったころ(明治20年代)に、坪井玄道から蹴球を教えられたという記録はあるが、第2代・深尾隆太郎、第3代・高橋龍太郎の各会長には、サッカー・プレーヤーとしての経験はなく、サッカー畑でしかも代表選手が会長に就任したのは、野津謙さんが初めてである。第6代・藤田静夫、第7代・島田秀夫もいずれも本格派プレーヤー、第8代・長沼健、第9代・岡野俊一郎、第10代・川淵三郎はともに代表の選手、監督の実績を持つ。
 野津さんは協会の機関誌などで、多くの評論やリポートを残しているが、1928年(昭和3年)にアルス運動叢書で『ア式蹴球』を鈴木重義さんと共著で出版している。新書版より少し大きめの184ページ(定価1円)。内容をア式蹴球一般(63ページ)とア式蹴球実技に分けている。
 その前段(一般)の競技規定、歴史と現状、ア式蹴球の特徴、練習及び試合に関する一考察、ア式蹴球を通じて見る勝敗ならびにコーチ上の注意――といった項目については野津さんが執筆。実技、キックやストップ、ドリブル、タックル、ヘディングそしてゴールキーパー、フルバック、ハーフバック、フォワードなどのポジションプレーについては鈴木さんが記している。
 チョー・ディンによって、基礎技術を分かりやすく、科学的に説明されるようになったこと、また、極東大会やオリンピックなどへの関心の高まった時代が表れた書き物であると同時に、当時のリーダーたちの鋭い観察と広い知識が集約されている。
 野津さんは、このなかでも東京蹴球団主催による小学生大会の開催について触れ、全国での小学生への浸透を喜ぶとともに、これまでの“つたない足技”という日本人の印象が、これによって一掃されると記している。人生後半のスポーツ少年団活動にもつながるものといえる。


(月刊グラン2007年6月号 No.159)

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