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伝統的な哲学を持ちつつ日本のサッカーとスポーツの国際化を図ったドクター 野津謙(下)

和魂洋才の国際ドクター

 麻疹(はしか)のために授業を取りやめる大学が多くなっている。テレビや新聞でその報道を見ながら、野津さんはこれをどう思うだろう――などと考える。
 日本サッカー協会(JFA)第4代会長の野津謙さん(故人)は、アメリカで予防医学を学び、死亡率の高かった結核予防のため、戦前に東京都の学童へのツベルクリン反応の実施計画にかかわったドクターであったからである。
 西洋医学だけでなく鍼灸をも研究し、電気バリを使っての良導絡の治療でもリーダーだった。
 こうしたドクターとしての仕事や研究は、サッカーの仕事にも反映される。
 1928年(昭和3年)のアムステルダム・オリンピックの日本選手団の本部役員として渡欧したとき、アムステルダムにあるFIFA(国際サッカー連盟)の事務局を訪れ、日本の加盟申請(29年に正式加盟)を行なったのが野津さん――。31年から3年間のアメリカ留学は予防医学、公衆衛生などの部分でドクター野津を日本のトップに押し上げるが、同時に、この人の国際感覚を磨き、スポーツの国際的舞台での活躍の基礎をつくる。
 帰国後は東京都の小学児童の結核予防でも実績を挙げ、また厚生省で国民健康の増進といった大きな仕事にも入ってゆく。
 大戦中、大政翼賛会国民生活指導といった国の政策にもかかわったことで、大戦終結後は公職から去り、自ら野津診療所を開設することになった。公衆衛生の権威として多くの後輩を育て、この部門のリーダーとして、後々まで尊敬を集めるのだが、こうした西洋医学に携わりながら東洋医学の鍼灸に興味を持つところが、野津さんの幅の広さというべきか――良導絡という電気バリでドクターの治療を受けた選手も少なくない。


クラマーの指導哲学に共鳴

 大戦終結から10年、野津さんはJFA第4代会長となる。野津さんたちの努力によって築いた戦前の日本サッカーの発展が、大戦とその後の“生きるのがやっと”という困難な社会情勢によって足踏みし、後退した時期だった。第3代の高橋龍太郎会長(故人)は財界の大物、プロ野球のオーナーとなったための辞任だったが、野津さんは1924年(大正13年)からJFAの理事、51年(昭和26年)からは理事長であり、学生時代には日本代表としてプレーした経験を持つ、いわば生粋のサッカー人。難局を乗り越えるためにJFAがひとつのチームとして取り組むためのキャプテンでもあった。
 焼け野原となった国土の再建と同じように、サッカーの再興は、それが世界で最も盛んなスポーツであるだけに、日本での基礎づくりのための普及とトップとなる代表チームの強化についての幅広い施策が必要だった。
 野津会長の下で、まず国際舞台への復帰が始まり、スポーツ界全体の方針であった東京オリンピック(64年)の招致が決まると、それに向かっての、いや“東京”を足場にしての強化と普及に突き進んでいった。独立国が増え、所帯が大きくなったAFC(アジア・サッカー連盟)の力を借りることも大切だった。
 58年、AFC副会長となった野津さんは、ユース大会の開催を提唱し、日本をはじめとするアジアの若手の育成強化の一つの道を開き(前号参照)、同時に日本代表強化のために外国人コーチを招くことを決意した。反対論もあり、経費を心配する声もあったが、会長の強い意志と自らの目で選んだデットマール・クラマーという若くて才能あふれるコーチの来日によって、日本の戦後最大の布石が打たれ、成功した。
 西洋医学を学び、東洋医学を研究した野津さんの“精神”を重んじる心がクラマーの指導哲学と共鳴し、この有能なコーチの指導技術のすべてが、日本サッカーの向上に注がれたことは、60年以来47年間にわたって、彼の来日とその後の日本の歩みを見れば、読み取れることだ。
 野津さん自身も、自分の最も大きな仕事として、このクラマーの招聘を挙げている。


AFC、FIFAを足場に

 マレーシアの首相でもあったAFCの実力者会長、トンク・アブダル・ラーマンの信頼の厚かった野津会長だが、FIFAの理事として、60年代の会長、サー・スタンレー・ラウスからも高い評価を受けていた。
 1969年(昭和44年)にクラマーによって、第1回FIFAコーチング・コースを日本で開催し、コーチ育成のグローバルな基準を示し、わが国の組織的なコーチづくりのスタートを切ったのも野津会長時代の業績。FIFAにも初めての仕事であるとともに、東京、メキシコの2度のオリンピックでの代表の成果の後、時を移さずに実行したこの指導者づくりのモデルコースが、後の日本のコーチ育成に大きな布石となった。その布石の一つに79年に野津会長が提唱したワールドカップの日本開催があった。そのころ実現可能と考えた人はほとんどいなかったが……。
 同じ年に出版された著書『野津謙の世界 その素晴らしき仲間たち』(国際企画)の中で、自分の仕事の一つにスポーツ少年団の育成を挙げている。ドイツのスポーツ・ユーゲントに学んで、東京オリンピックの2年前につくられた日本スポーツ少年団の副団長として、野津さんは会長の武田恒徳さん(故人)を助け、実質的な運営にあたった。
 少年へのスポーツの浸透を、学校長の責任による小学校や中学校という学校とは別のところ――スポーツ少年団で――という考え方は、学校が唯一のスポーツの場であった日本の常識を覆す新しい動きだった。
 このスポーツ少年団は、藤田静夫・第6代JFA会長(故人)から、さらに現在は長沼健さん(第8代会長)が団長となっている。
 野津さんの開いた少年スポーツ普及の道の理解が、この人のサッカー畑の後輩たちに、現在も引き継がれているところに、日本のスポーツ界の中でのサッカーの世界性と特異性とがあるように見える。
 その世界から見れば、特異な日本のスポーツ界にあって、サッカーが世界性へと踏み出したリーダーが、野津さんだったと私は思っている。


野津謙(のづ・ゆずる)略歴2

1929年(昭和4年)5月、日本体育協会理事(31年6月まで)。FIFA総会で日本の加盟が認められる。
1931年(昭和6年)6月、体育協会専務理事。
           9月、米国へ留学(34年1月まで)。
1935年(昭和10年)4月、東京都中央保健所学校衛生部長(37年12月まで)。
1938年(昭和13年)1月、厚生省体育官(41年まで)。
1941年(昭和16年)1月、大政翼賛会国民生活指導部副部長(5月まで)、次いで同産業報告会厚生部長(45年12月まで)。
1947年(昭和22年)10月、野津診療所を開設、所長に(82年3月まで)。
1955年(昭和30年)4月、JFA第4代会長。
1958年(昭和33年)5月、アジア・サッカー連盟副会長(70年まで)。
1963年(昭和38年)4月、日本スポーツ少年団副本部長(66年、同本部長に。73年まで)。
1976年(昭和51年)JFA名誉会長。
1983年(昭和58年)8月27日没。
           藍綬褒章受章(64年)勲三等瑞宝章受章(69年)英国ナイト勲章受章(70年)。


★SOCCER COLUMN

学校保健、予防衛生
 サッカー人としての野津さんの仕事を振り返れば、その時々の大きな実績に驚くのだが、それがすべてボランティアで、アマチュアだっても、プロフェッショナルと変わらぬ――あるいは、それ以上の業績であることに感嘆する。同時に本業であったドクター、医師としてもまた、多くの仕事を果たされたことにも、あらためて頭の下がる思いがする。
 父君が開業医であったところから、ためらうことなく医学の道に進み、広島一中、第一高等学校、東大でスポーツに打ち込みながら、1923年(大正12年)3月、東大医学部を卒業し、4月に血清化学教室に入り、27年(昭和2年)から小児科教室の研究員となる。
 28年、アムステルダム・オリンピックの大会役員として渡欧したとき、3ヶ月にわたって、欧州の医業を見学し、そこで「小児科における日本の予防医学の遅れを痛感した」という。
 31年、ロックフェラー留学生となり、ハーバード大学公衆衛生部で小児衛生を専攻し、34年に卒業、帰国して翌年から東京都中央保健所学校衛生部長となり、学校保健というまったく新しい分野に踏み込み、結核死亡の予防などにも取り組んだ。


クラマーの言葉

「人がものを見るのは目でなく魂である。ものを聞くのは耳でなく魂である」

 これはクラマーの座右の銘で、その彼の精神を重んじる指導哲学に野津さんが共鳴したのはよく知られている。
 1979年(昭和54年)出版の『野津謙の世界 その素晴らしき仲間たち』(国際企画)という著書の表紙(カバー)にも、この言葉がドイツ語で書かれていて、クラマーへの野津さんの傾倒ぶりがうかがわれる。


(月刊グラン2007年7月号 No.160)

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