賀川サッカーライブラリー Home > Stories > >神戸→デュッセルドルフ:早くも始まった現地からの大報道。おかげで高原の2ゴールを見る

神戸→デュッセルドルフ:早くも始まった現地からの大報道。おかげで高原の2ゴールを見る

 2005年1月から始めた「マイフットボール・メモリーズ」で私が出会ったサッカー人について連載してきました。まだまだ多くの人について話したいのですが、ひとまず前回で中断し、今回から「2006年ワールドカップ・ドイツの旅」をスタートさせて頂きます。

 1974年の西ドイツ大会のときに、初めて「ワールドカップの旅」を書いたのが予想外の好評に気を良くして、以来大会ごとに(94年は別として)サッカーマガジン誌上に書き連ねてきました。月刊のときはもちろん、月2回あるいは週刊となってからも、大会終了から1年、ときには1年半、2年を超える長期連載となったこともありました。
 今回は9回目のワールドカップ。西ドイツ大会を皮切りに、アルゼンチン、スペイン、メキシコ、イタリア、米国、フランス、日韓共催の各大会を記者として、それぞれ開幕から決勝まで取材してきました。ことしも6月6日に出発し、9日の開幕戦から7月9日の決勝まで各会場での試合を見て回る予定です。
 そのドイツでの試合を見たままに、旅で出会った人や、土地柄や――そして、そうした風土とサッカーについてなど――をこれからお伝えしたい。今回はその連載の第1回目、自身はまだ出発前の“旅”です。


ドイツの高原と2−2のスコア

 2002年大会の開催によって日本の大衆にぐっと身近になったワールドカップは、代表の連続3回出場――しかも波乱の多かったアジア予選を経て、古参メディア人が驚くほどの情報の洪水となった。おかげで、5月30日、レバークーゼンでのドイツ対日本戦をテレビで見ることができた。
 そのテレビ画面は、胸のすくような2ゴールのシーンを映してくれた。1点目は中村俊輔の切り返しのキープからのパスを受けた柳沢が、これまた見事なパスを送り、左にいた高原が突進。ノーマークで受け取ってドリブルし、落ち着いて、高目を狙ったカーブシュートを決めた。2人のFWが相手DFから離れる動きはまことに見事――。
 2点目も高原。やはり右足だったが、今度のパスは、縦ではなく、右サイドの駒野(負傷の加地に代わった)からの横パスだった。短いパスをつないだ右サイドでのやり取りのあとで、駒野がクロスを上げるのでなく、ニア側の高原へサイドキックのグラウンダーで送った。戻って受けた高原はマークする相手を左足の切り返しで外し、2人目の足に当たったリバウンドを前方のスペースへ持って出て、完全にフリーとなり、右足で左隅へ叩き込んだ。
 左足シュートの効く高原だが、その左をおとりにして切り返したところがこの場面の面白さだったし、それまでの短いパスの組み合わせで、相手ディフェンス・ラインが立ち止まる形になっていたのも、切り返しが効くポイントでもあっただろう。
 高原が磐田で見せていたプレーをこの相手でもできたのは彼の意欲やコンディショニングを表すものと言える。
 2失点は問題と、宮本は反省していたが、0−2となって挽回を図るときのドイツ代表のすごさ、その体の強さと動きの激しさ(ファウルも含めて)はヨーロッパで知らぬ者はない。98年フランスでの1次リーグでもストイコビッチのユーゴが2−0でリードしながら後半に追いつかれてしまった。
 その迫力ある左右の攻めを2点でしのいだのは上出来、むしろ3点目をこちらが取れなかったことを考えるべきだろうと思う。
 リードしたあと、相手のセットプレーの脅威に備えてFWに巻誠一郎を起用しておく手もあったはずだが、ジーコは、この注目される試合で、そこまで見せたくはなかったのかもしれない。
 いずれにしても、このテレビ中継のおかげで、日本でのワールドカップへの期待が、ますます高まることになった。


大会中の日本での報道に期待

 今度の大会には5000人の記者とカメラマン、それにテレビのリポーター、技術者たち1万人が世界中から集まってくる。日本からの取材陣も多く、新聞や雑誌の大手では日本代表に「べったり」組はもちろん、それぞれの試合にバリバリの記者を送り込む。ヨーロッパ駐在もカバーするから、大会中の日本の新聞、雑誌は素晴らしいものになるだろう。
 74年にサンケイスポーツ紙の第3面(大阪版)を占領して毎日記事を送り続け「どこにもない紙面を作った」とひそかに快哉を叫んでいたころに比べると、まさに違う世界にいるようである。
 遠い世界といえば、タイムを後戻りすれば、今年はベルリン・オリンピック、あのスウェーデンに初参加の日本が勝った快挙から節目の70年に当たる。
 そのころは関東と関西の大学リーグの選手で代表が作られた。いわば一握りの仲間たちだった。いまは北海道から沖縄まで日本全土(それに外国から)の選手がJリーグでプレーし、その中からジーコは、欧州で働く中田英、中村らを合わせて23人を選んだ。
 この大会での参加が3回目となる中田英や小野、川口、楢崎を始め、前回の経験者もいる。世界は広くなり、高くなったが、日本のサッカーも広い基盤を持ち、レベルを上げた。その世界と日本を眺めるのも“旅”の楽しみである。


(週刊サッカーマガジン 2006年6月20日号)

↑ このページの先頭に戻る