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神戸→ミュンヘン:色々とあったが、とうとうミュンヘンへやってきた。81歳の旅が始まる

航空機の進歩とこちらの退化

「ソウル、北京、ウランバートル、ノボシビルスク、モスクワ、ビリニュス、ポズナニ、ライプチヒを経てフランクフルトへ…」。機長の飛行経路のアナウンスに「しまった、窓際にしておけば」と悔やんだ。
 2006年6月6日、関西新空港を朝9時55分にスタートしたルフトハンザ航空(LH)741便は北西に向かって飛んでいた。
 前夜、空港の“ホテル日航関西”に泊まり、この日の朝に備えた。81歳らしく、万事「ソロリ、ソロリ」と運んでの出立だった。旅行代理店の「席を窓際にするか、通路側にするか」の問いにも、何かの異変のときに応対しやすいだろうと通路側を選んだ。トイレへの回数がめっきり増えたことも理由の一つだったが、アナウンスを聞いてこのコースなら、大戦中の1945年、陸軍のパイロットでいた朝鮮半島の海洲(ヘジョ)市一帯の海岸や、その背後の岩山“首陽山”(休みの日に登った)などをはるかに見ることができると心が騒いだ。騒ぐ自分の心を「相変わらずの野次馬」ともう一人の自分がたしなめていた。
 その大戦終了から30余年経って、私の「ワールドカップの旅」が始まったときも、ルフトハンザ機だった。
 ただし当時は北回りでアラスカのアンカレッジを経由した。いまはシベリアからヨーロッパ・ロシアの上空を通ることになっている。
 32年前と変わったのはコースだけではない。同じビジネスクラスの席でも、今度のエアバス機はシートが広いだけでなく、重い荷物を座席の下の空間に置くことができる。長い飛行の間に読んでおきたい印刷物を持ち込む私には、とてもありがたかった。
 テクノロジーの進歩で旅客機は驚くほど快適になったが、私の身は退化をたどった。
 2002年ワールドカップのあとで2回目の「そけいヘルニア」の手術をした。2004年の夏ごろからの「目まい」がときに強くなり、2005年のコンフェデ杯は、申込みながら直前にキャンセルした。その旨のこちらからの連絡に、FIFAからの返信メールは「一日も早い回復を祈る」とあった。
 目まいのために血行、血液などの検査をしたが、異常はなく、結局は内耳の問題だろうとなった。一方、各所の検査から昨年秋に「腫瘍マーカーの数値」という点ですい臓のそれが少し高いとなり、出発前に検査をし、最終検査結果でOKとなったのが5月31日だった。ご存知のようにすい臓がんは見つけにくく、手遅れになるケースが多いのだが、今回は二つの病院での検査で「いまは大丈夫」と出た。ドクターの話を聞きながら、年寄りが仕事を続けるためには、多くの人のサポートを受けなければならないと悟った。
 ドクターはOKでも旅行保険ではもうひとつ思い知らされた。傷害死亡については問題ないが、疾病死亡については、81歳以上は対象にならないというのである。保険会社からみればこの年になれば死亡は自然のことになるのだろう。エージェントは疾病治療費という項目のある契約を見つけてくれたが…。
 そうしたもろもろの旅行手続きをしてくれたのが、早くに去ってしまった親友・岩谷俊夫(第2回サッカー殿堂掲額者)の次男、砂田純二君だった。


ミュンヘンで世界の新聞を眺めて

 6月6日午後3時20分(現地時間)、定刻より少し遅れてフランクフルト空港に着く。機能的に作られたここも、拡大され、ミュンヘン行きのLH974便の搭乗口、S13までは長い歩行となる。急ぐ私に後方から声がかかる。古くからのサッカーフリークTさんがいた。“旅”の愛読者でもあるこの人も定年退職で時間に余裕ができたので、大会前に早々と出かけてきたという。
 活字にするものと読んでくださる側とのつきあいも30年を超えることになる。
 その30余年間に日本サッカーは大変革を遂げた。74年大会を観戦した長沼健監督、岡野俊一郎コーチの日本代表チームの中に釜本邦茂選手がいた。彼はこの大会で活躍したゲルト・ミュラーたちに刺激を受け、74年後期のJSL(日本リーグ)で猛威を振るった。いまはこの大会に参加する日本選手団の団長、JFA副会長である。かつてアマチュア時代の日本代表にはユメだったワールドカップも今度が3度連続出場。2002年大会は韓国との共催を成功させ、大会のホスト経験国15ヶ国に名を連ねている。
 選手たちには3度目の中田英寿、小野伸二、川口能活、楢崎正剛や欧州で実績を積んだ中村俊輔たち、大会前から世界中に注目される才能がそろってきた。
 ミュンヘン空港からUバーン(地下鉄)でホテルに向かい、ハウプトバーンホフ(鉄道の中央駅)で降りる。多くの新聞、雑誌売り場で世界中の新聞が並んでいるのを見る。スペインのエル・パイースも、ロンドンのタイムズもイタリアのガゼッタ・でろ・スポルトもあった。
 それらの見出しや写真を眺めていると、ドイツへ来た、ワールドカップの主戦場へ来たという実感がふつふつと沸いてきた。さて、21世紀二度目のワールドカップで何を見られるのか――。


(週刊サッカーマガジン 2006年6月27日号)

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