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フランクフルト→ライプチヒ:LHの短い飛行の中でカール・ディーム博士とシュライナー・コーチを偲ぶ

駒野友一の左足クロス

 新潟でのアジアカップ2007予選の対イエメン戦(2−0)では、阿部勇樹のニアに飛び込んだヘディング・シュート(1点目)や、佐藤寿人の、自らヘディングで狙ったあとのリバウンドのシュート(2点目)など、いくつかのいいプレーがあった。それらとともに、駒野友一の左サイドからの左足クロスが、私にはうれしいことの一つだった。
 オシム監督によって、前週のキリンチャレンジカップ、対トリニダード・トバゴ戦で左DFに起用された駒野は、右利きで、ジーコ体制下の代表では右サイドでプレーしていた。
 その逆サイドのポジションに配置された彼は、右足のロングボールでアレックスの2点目をアシストしたが、左サイドを走って、左足でクロスを送るプレーは一度だけ(グラウンダーで、相手DFに跳ね返された)だった。
 1週間後の彼は、左足のクロスを二度蹴った。一本は中央へ、一本はゴールキーパーすれすれのファーへ飛んだ。出場時間は前半だけで、縦に飛び出た勢いのままクロスを上げるよりも、切り返して右に持ち変える方が多かったけれど、ともかく、このポジションで必要なプレーをしよう、そのための左足キックを使おうとする姿勢が見えていた。
 一般的に、このポジションでの役割を果たすためのポジションプレーの上達が遅いことに(代表でも、Jリーグでも)驚き続けている私にとって、当然とは言いながら、駒野の取り組みはうれしいものだ。もし彼が、広島で右サイドでのプレーを続けるとしても、左足のキックの上達が、大きなプラスになることは間違いないからである。
 さて、ワールドカップの旅、番外編でキリンチャレンジカップの話が入る前の連載第10回は、大会の2日目、ミュンヘンからフランクフルトへ移動し、イングランドとパラグアイの試合を見るところでした。今日はその次の日です。


ナポレオンとの大会戦の地

「さあ、ライプチヒだぞ」
 フランクフルト空港を9時15分発のLH(ルフトハンザ)1102便に乗り込んで、ちょっとうれしくなる。
 一度は行ってみたいと思っていた町だからである。
 ベルリンの南195キロにあるライプチヒは、ドイツ通によれば、東方115キロのドレスデンとともに、日本で言えば京都、奈良のようなもの。つまり、古都だという。
 ドレスデンの方は、大戦中に有名な米英空軍による無差別爆撃で壊滅した。その後の大聖堂の再建に絡めてのNHKの特集番組は、多くの人の胸を打った。
 ライプチヒという名は、ここに住み着いたスラブ人が、リプスク(菩提樹の地)と呼んでいたのが、ゲルマンの支配下となって変化したと言われている。エルスター河とパルテ河との合流点であるこの地は、古い時代の交通の要であったろう。ロシア、プロイセン、オーストリアの連合軍と、あのナポレオン軍の会戦が1813年10月にあって、凄まじい4日間の戦闘を繰り広げた。
 そんな戦争の話はともかく、バッハがオルガンを弾いていた教会、メンデルスゾーンが指揮したオーケストラ、ゲーテが学んだ大学というふうに、ドイツ文化を語るときに外せない名が、いっぱい詰まっているライプチヒは、日本の文化人にとっても憧れなのだが…。


ディームの名に威儀を正したコーチ

 私がライプチヒという名に興味を持ったのは、1953年にオッフェンバッハ・キッカーズという、当時、西ドイツのセミプロのチームが来日したときだった。このチームについては、いずれ別の機会に触れるが、カール・シュライナーというキャプテンでコーチ格の選手が、試合とは別に講習会を開いて、西ドイツ式のパスの展開を教えてくれたのが、いまも印象に残っている。
 そのカール・シュライナーの指導に立ち会い、通訳を引き受けてくれた、麻生武治(あそう・たけはる)さん(故人)が、ライプチヒ体育大学のカール・ディーム博士(故人)にも学んだことがあると語ったとき、シュライナーが“気をつけ”の姿勢となり、威儀を正したことに、私は強い感銘を受けた。
 1936年のベルリン・オリンピック大会組織委員会にあって、ナチスの権力誇示の強い要求に抗しながら、オリンピック精神を貫き通した人として、ディームさんの名を、私たち世代の記者は先輩から聞かされていた。
 シュライナーの“不動の姿勢”で改めて、ドイツのスポーツ人のディームさんへの傾倒を知るとともに、ライプチヒの名が私に刻み込まれた。スポーツとなれば、いまのDFB(ドイツサッカー協会)が誕生した地も、ライプチヒであったことを記さなければならない。
 1974年にはじめてワールドカップを取材したとき、フランクフルトのDFBを訪れ、彼らの計画的で整然たる組織と運営の一端を知った。
 32年後、そのフランクフルトからDFB協会の地を訪れることができるし、ドイツで学び、スキーと陸上の先駆者の一人であった麻生さんのベレー帽姿を頭に浮かべながら、私はスポーツとサッカーの長い歴史の中に身のおける幸せを感じていた。


(週刊サッカーマガジン 2006年9月5日号)

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