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ドルトムント→ハノーファー:「風林火山」も「威風堂々」もブラジルには勝てず

U−21代表と本田圭佑のヘッド

 U−21代表の中国戦(10月25日、東京・国立)はアウェーでの第1戦(2−0)に続いての快勝だった。
 北京オリンピックを目指す開催国だから、代表強化に力を入れるのは当然のこと。選手たちは体格が良くて、技術が高い――という触れ込みだったが…2試合を見る限り、「ゴールを奪われない」「ゴールを奪う」組織的な動きは、当方が少し上という感じだった。
 監督さんの指示かどうかは別にして、このチームのクロスが、全体的に長めに蹴っているのがいい。第2戦の1点目、左からの増田誓志(鹿島)のクロスもそうで、平山相太(FC東京)を越えたボールを、背後に飛び込んだ梶山陽平(FC東京)が決めた。平山のような長身選手がいれば、その彼に相手はひきつけられる。その裏を狙うのは当然ながら、それを成功させたのは立派なものだ。
 素晴らしいと言えば、第1戦の先制ゴール。右からのいいクロスに合わせた本田圭佑(名古屋)のジャンプヘッドも圧巻だった。高校生の頃から、左利きのボールを持つ形のいい選手で、ここしばらく名古屋での成長ぶりに注目していた。
 突っ立ったままの姿勢で足元のボールを蹴ることができる彼は、60年代に東京、メキシコ五輪で活躍した宮本輝紀を思い起こさせるが、その“輝さん”よりひと回り体が大きく、キックの距離も長い。いわゆるボールプレーヤーの彼にとって、このヘディングは大げさに言えば、新境地を開くことになるのではないか。


玉田の先制ゴールはあったが

 さて、ドイツの旅。2006年6月23日、5時30分のモーニングコールで目を覚ました。前夜9時キックオフの試合後、ホテルへ戻り、ベッドへ入ったのが午前2時だった。熱いシャワーでなんとか体を元気づけ、朝食も取らずにタクシーを頼んで駅へ向かった。
 ドルトムント中央駅7時24分発、ICE808列車、12号車33番の席。この日は荷物を持っての移動で、まずブレーメンのホテルにバッゲージを預け、ハノーファーへ往復し、21時開始のグループG、スイス対韓国を取材する予定だった。
 すでにグループステージ48試合のうち、44試合が前日までに終わっていた。グループFの日本代表の第3戦、対ブラジルも1−4。同じ時刻からのクロアチア対オーストラリアは2−2だった。グループFの首位は3勝のブラジル。2位は1勝1分け1敗のオーストラリア。3位は2わけ1敗のクロアチア。日本は1分け2敗で最下位。
 4チームによるリーグは第1戦が全てと言っていいほどだ。そこで1−0から1−3となり、2点差をつけられたことで、あとは奇跡を待つだけだった。
 クロアチアとの試合は、心を打つ頑張りだったが、1点も取れずに引き分けた。ブラジル戦は、玉田圭司(名古屋)のシュートでリードしたが、前半のロスタイムに同点とされた。
 ロナウジーニョ(バルセロナ=スペイン)にフリーでボールを持たれ、彼から右のシシーニョ(レアル・マドリード=スペイン)に完璧なボールが送られたところで、技アリだった。シシーニョがヘッドで折り返したのをロナウド(レアル・マドリード)がヘディングで決めた。
 相手の揺さぶりにマークがずれてしまって、それまでの全員の粘り、川口能活(磐田)の頑張りで保ってきた、かすかな望みがここでプツンと切れた。ハーフタイムニッピッチを去るブラジルの精鋭は、「これで勝てる」と思ったに違いない。
 後半はブラジルのスピードが爆発した。


ヨーロッパで未勝利のまま

 動き出した列車の中で、53分の2点目、ジュニーニョ・ペルナンブカーノ(リヨン=フランス)の強シュート、ロナウジーニョからのスルーパスを決めたジウベルト(ヘルタ・ベルリン=ドイツ)の3点目。そして、反転シュートを決めたロナウドの4点目――などのメモを読み直した。
 スタンドにいっぱい、旗や横断幕が出ていた。「横浜の誇り中澤佑二」「一蹴入魂」「威風堂々」「風林火山」などの字句がメモにあった。98年には初めてのフランス大会に日本代表が出場し、02年の日韓での開催で、ワールドカップは日本の社会の4年に一度の楽しみとなった。
 はるか遠いドイツまで、「風林火山」がやってくるようになったが、ホームの利のないヨーロッパでは、依然未勝利に終わった。
 それにしても最も重要なときに、最も重要なプレーヤーが調子を崩すとは――と思う。スコットランドで“ところを得た”中村俊輔(セルティック)が、ぐんぐん腕を上げて、中田英寿とともにチームの中心となりながら、肝心なときに風邪を引き、足を痛めた。その姿はスタンドから見て気の毒なほどだった。
 気の毒といえば、中村の不調をはじめ、直前になってのDFのケガや選手の入れ替えなどがあったのは、ジーコ監督にとっても気の毒なことだった。それは選手時代、82年にバチスタを欠いてイタリアに敗れ、捲土重来の86年には自らの故障で苦しんだ不運とつながっているのかどうか――。
 ともかく、日本のドイツ大会は終わった。


(週刊サッカーマガジン 2006年11月14日号)

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