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vol.4 イタリア(続)


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「フットボール・アラウンド・ザ・ワールド」は88年5月号から始まり、7月号まででイタリアを上・中・下として紹介しましたが、この号も、3回の補足として続・イタリアといたします。
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85年トヨタカップ ユベントスの劇的な優勝

 イタリアのクラブ・チームで日本に一番なじみが深いのはユベントスだろう。
 1985年のトヨタカップの来日し、12月8日、国立競技場でアルヘンチノス・ジュニアーズ(アルゼンチン)と戦い、延長を終わって2−3の大接戦の末、PK戦で劇的な優勝を飾った。ヨーロッパと南米のナンバーワン・クラブによるこの試合は、1960年からの歴史を持っているが、四半世紀を越える歩みの中でも、このときの試合は、傑作の内に入るものだった。90分間に、互いに攻め合い、アルヘンチノスのリードを追って、ユベントスが再度、同点にするというエキサイティングな経過だった。

 アルヘンチノスの得点は後半7分にビデラがユベントスDFラインの裏へ出したパスをエレロスが決めた(ボレーのシュート)のと、30分にボルギからのスルーパスをカストロがカブリーニとせりながらシュートしたもの。ユベントスの得点は、1点目はPKで、長身のストライカー、セレーナがプラティニからの長いクロスをうけて、シュートに入ろうとしたときにオルギンの反則が生まれたのだった。
 2度目の同点ゴールは、ラウドルップとプラティニの20メートル近い壁パス。プラティニがダイレクトに相手のDF陣の背後に落としたパスは、その高さ、強さ、ボールの落下のポイント、タイミングは芸術的といえるほど見事だった。それを受けたラウドルップは、飛び出してきたGKの手で足を払われて、バランスを崩しながら、見事な復元力でもちこたえ、ゴールへ蹴り込んだ。この得点の他に、オフサイドで取り消されたゴールが3得点あり、90分間のゴールの応酬はまことにスリルに満ち、そのゴールに至るアプローチは、技術と、戦術の確かさと、その持ち場での一人一人の体の練度の高さをも示していた。
 この試合は、攻めるサッカーの楽しさを世界に訴えただけでなく、トヨタカップを日本に完全に定着させたといえる。


クラブ世界一は3チーム

 ユベントスは、6回のトヨタカップの中で、欧州代表として初めてカップを手にし、1960年以来の「世界クラブ選手権」の頃からの通算では1976年のバイエルン・ミュンヘンの勝利から9年ぶりで、欧州勢として10度目(南米は10回)。イタリア・チームではインテル・ミラノ(1964年、65年)ACミラン(1969年)に次いで3チーム目、4度目だった。

 ユベントスがクラブの世界ナンバーワンとなるためには、欧州ナンバーワン、つまりヨーロッパのクラブの3大カップのうちの、欧州チャンピオンズ・クラブ・カップで優勝しなければならなかった。1897年創立、90年の歴史を持ち、北イタリアのトリノ市で、トリノFCとともに市民に愛されるこのクラブは、すでにイタリアのリーグで最多の20回優勝をし、欧州のカップ戦でもカップ・ウィナーズ・カップ(1984年)UEFAカップ(1977年)に優勝していた。
 1983−84年シーズンのイタリア・リーグで21回目の優勝を遂げ、次のシーズンの欧州チャンピオンズ・カップに出場して、決勝でリバプールと対戦した。1985年5月25日、ベルギーのブリュッセル市のヘイゼル・スタジアムで行なわれた、この欧州の名門対決は試合前に両チームのサポーターの騒動から、死者39人、負傷者450人を出す大惨事となったことは、記憶に新しい。
 多数の死者が出たあと、1時間半遅れて開始されたゲームで、ユベントスはプラティニのゴールにより1−0で勝ったのだった。こうした悲しい背景を負ったヨーロッパ・チャンピオンであっただけに、同じ年12月8日の国立競技場でのフェアで、純粋にスポーツ的なスーパーゲームは、いっそう印象が強かったに違いない。


85年トヨタカップ ユベントスの守から攻へ

 このときのユベントスのチームには、リベロのシレーア、FBのカブリーニ、MFのマンフレドニア、FWのセレーナなどのイタリア代表の他に、チームの要(かなめ)となったプラティニ(フランス代表)、FWのラウドルップ(デンマーク代表)らがいた。
 プラティニは1984年のヨーロッパ選手権(4年に一度のナショナルチームの大会)でフランス代表が優勝したときのキャプテン。1982年からユベントスに参加し、チームメイトとの呼吸も合うようになっていた。年齢も30歳、プレーはいよいよ熟成していた。

 プラティニがフランスからやってくる前からユベントスは、イタリア・サッカー界でトップの地位を保っていた。1978年のワールドカップ4位、1982年のワールドカップ優勝の、あのイタリア代表の主力はユベントスの選手達だった。GKのディノ・ゾフやストッパーのジェンティーレ、パオロ・ロッシ、78年のヘディングの名手、ベッテガ、ドリブラーのカウジオ、頑健、相手のエースを封じるベネッティらの名は、今も、そのプレーと共に多くの人に覚えられている。そんな優秀なプレーヤーを持ちながら、欧州チャンピオンズ・カップに縁がなく、したがって、クラブの世界一(トヨタカップ)にも届かなかったのは、やはり、このチームが、イタリアのスタイルである“守備重点”だったから――というのは、私の言い過ぎだろうか。
 それが、プラティニという“将軍”を得て、多彩な攻めを構築し、攻めるサッカーの面白さをファンに披露し、サポーターだけでなく、多くの人に喜ばれ、楽しまれるチームとなったのが、世界ナンバーワンにつながったといえる。


代表チームより、リーグ戦

 ひとつのクラブについて、いささか話が長くなったが、こうしたユベントスの歩みは、イタリアのリーグあるいは、イタリア・サッカーのモデルといえるからだ。前号でも、少し触れたが、中世の都市国家時代からの都市、あるいは地域の対抗意識が強いイタリアでは、長い間、イタリア代表チームの試合よりも、ビッグ・クラブ同士のゲームの方が、観客数も多く、人気があったとされている。
 私の手元にある1980年までの、有料観客数の記録は、

【UEFAカップ】
▼インテル・ミラノ対ボルシアMG(西ドイツ)=78,331人。入場料690,314,000リラ=が第1位
次いで
▼インテル・ミラノ対ACミランの、いわゆるダービーマッチ。79,302人の入場、636,275,000リラ

 80年にイタリアで行なわれたヨーロッパ選手権で、イタリア代表対イングランド代表というビッグ・カードは、59,649人で、さすがに入場料収入のランクは5番目にあったが(単価が高いので)入場者数は、ベスト10からはるかに遠い。

 こんな背景から、ユベントスは、まず同じ町のFCトリノに勝つため、ローマに勝つために、チーム作りをする。国内にいいプレーヤーが見つからなければ、外国のプレーヤーを買い入れる。ユベントスはイタリア・リーグ優勝のため“将軍”プラティニを加え、ナポリはマラドーナに大金を払い、ジェノバのサンプドリアは、プリーゲルに、インテル・ミラノはルムメニゲを招きいれるのだった。こうした、外国人プレーヤーによる刺激と、少年育成の成果で、イタリア・サッカーは今ヨーロッパで最も活況なリーグを展開している。

 今年1987−88年シーズンに、マラドーナのナポリと優勝を争い、タイトルを握ったのはACミラン。かつて八百長事件のため1981年には2部へ落ちるというハンデを負いながら、いち早くカムバックし、今年はオランダの「第2のクライフ」フリットを加入させたのが効果をあらわし、名門復活、11回目のリーグ優勝となった。
 このACミランも、インテル・ミラノとともにこれまでに、クラブの世界チャンピオンに名を列ねていることは、先にふれた。ACミランが再び“世界”でいつ成功するのか、イタリア・サッカーの“国産”のプレーヤーのレベルも高いことから、大いに注目されるのだ。


プレーヤー100万人、日曜日に2万試合

 さて、このイタリア国内試合は、全国リーグ:1部(16チーム)2部(20チーム)に分かれ、地域リーグは、北、中、南の三地域(1地域20チーム)に分かれている。もちろん、この下に、さらに細分されたリーグがある。これらを統轄するイタリア・サッカー協会(FEDERAZIONE ITARIANA GIUOCO CALCIO)=略称FIGCによると
 ●登録クラブ 2,4651
 ●登録プレーヤー数 1,006,148人
 (プロ 780人、ノンアマ 3,496人 、アマ 528,090人、ジュニア 277,344人、低年層 196,438人)
 これに、
 ●審判 20,096人
 ●協会役員 22,529人
 ●各クラブ役員 254,876人
 ●その他 約33万人
  を加えると、イタリア協会の構成員は163万1千人。これらが展開する一シーズンの試合の総合計が、
 ●シーズン試合数 310,375
 ●観戦者 140,096,810人
 ●入場料総計 1825億3900万リラ となっている。

 データは1978−79年シーズンのもので、いささか古いが、これを、もう少し前の1975−76年シーズンのものと比べると、その発展ぶりが分かる。
 ●登録クラブ 2,4651
 ●登録プレーヤー数 933,564人
 ●シーズン観客 92,658,664人
 ●入場料総計 1,096億8,187万リラ

 したがってクラブ数はプレーヤー数は72,584人増(7.7%増)また、シーズン中のプロ、アマも含めた全試合(78−79は31万375試合)の観客は4,743万人増(51%増)となっている。
 1970年代はインフレの時期のはずだから、リラの増加は別として、人数の増え方も相当なものだ。これは、78年ワールドカップの好成績もあるが、何より、イタリア協会が少年対策に力を入れていることの成果だろう。82年ワールドカップの優勝で、これらの数字はさらに大きく伸びていると思われる。それにしても、毎日曜日に2万試合以上を行ない、6,200万人の国民が1年に2試合以上、プロ、アマを問わず試合を見ているというイタリア・サッカーの厚みにはただ感嘆のほかはない。

 イタリア・リーグ1部各チームのホームとなる都市の人口を見てみるとひとつひとつの町の人口が意外に少ないのに驚く。ユベントスとトリノFCの2つのチームのあるトリノ市でも110万人、1年のリーグのホームゲームは15試合、2チームあれば30試合がこの町で行なわれ、これにカップ戦、欧州カップ戦も加わってくる。昨シーズン優勝したナポリは、シーズンを通して、平均7万5,000人の観客がサン・パオロ・スタジアムにつめかけた。リーグ戦だけで112万余、市の人口のほとんどがスタジアムへ足を運んだことになる。もちろん、相手チームのホームへも応援に出かけている。

 サッカーが普及した、少年層に広まったという、私たちの周囲を見渡し、イタリア・サッカーの数字を見ると、あらためて、ラテン・サッカーの源流ともいうべき、彼らのサッカーへの情熱に脱帽することになる。


(サッカーダイジェスト 1988年8月号)

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