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フランクフルト→オッフェンバッハ:セミプロクラブが100年の歴史を持ち、運営を続ける独サッカーの原型

 12月14日夜の横浜でのFIFAクラブワールドカップ準決勝、クラブ・アメリカ(メキシコ)対バルセロナ(スペイン)で、ロナウジーニョの“楽しげな”プレーとバルサイレブンの個人技とチームワークを堪能した。
 試合後の記者会見でバルセロナのフランク・ライカールト監督が「勝利に満足しているが、ボールを奪われた後、取り返すのが遅かったことは修正が必要」と語った。それを聞いて、彼が選手時代に、その仲間のマルコ・ファンバステンが「攻守常備のライカールトの能力はすばらしい」と言っていたのを思い出した。
 クラブの歴史を築いていく監督自身の、そのキャリアの積み重ねを見るのは楽しいことだ。


53年前に来日した西ドイツクラブ

 さて、ドイツ・ワールドカップの旅――16強が8強に絞られ、準々決勝へ入ろうというとき、私はフランクフルトでの滞在を利用し、日本とドイツの戦後の交流の始まりとなったFCオッフェンバッハ・キッカーズの本拠地を訪ねた。
 金融の中心地で、DFB(ドイツサッカー協会)の本拠地でもあるフランクフルト市は、正式にはフランクフルト・アム・マイン。つまり、マイン河沿いのフランクフルトと呼び、東方にあるもうひとつのフランクフルトと区別している。
 そのマイン河の南、8時の方角にあるのがオッフェンバッハ市。人口11万人と大きくはないが、ここのクラブが1953年にドイツのクラブとして最初に日本を訪れた。
 まだブンデスリーガの誕生以前、フルタイム・プロは西ドイツにはなく、トップ級の選手の多くはセミプロ(契約選手と呼んでいた)だった。それでも翌年、1954年にはセミプロの西ドイツ代表がワールドカップに優勝するのだから…。
 この年6月に来日したオッフェンバッハ・キッカーズは、日本での3試合に全勝して帰った。ドイツ選手権準優勝の実力は、当時の日本のチームでは歯の立つ相手ではなく、特に彼らが最も力を入れた6月14日の対日本代表戦は、9−0という大差がついた。技術の差もあったが、体力の違いがあまりにも大きく、アマチュアで戦前・戦中派で固めた日本代表は、後半の中頃から動きが止まって完敗した。
 老練組で一番体力のあった私の兄・太郎が、終了直前に力を振り絞ってペナルティ・エリアにボールを持ち込んだときにも、フォローする者がおらず、GKチンマーマンの飛び出しに潰された場面が、いまも印象に残っているほどだ。


健闘を機に渡欧した学生チーム

 面白かったのは、日本学生選抜チームが90分間一方的に押し込まれながら0−2と大健闘したこと。
 そのときのチームが夏に西ドイツのドルトムントで開催された国際スポーツ週間(現・ユニバーシアード)に参加する。長沼健、岡野俊一郎、平木隆三たち――のちに日本サッカーの推進力となった世代が、この大会とその後2ヶ月のヨーロッパ巡回によって世界への目を開くのだった。彼らが西ドイツに到着したとき、温かく迎え、練習に付き合ってくれたのが、オッフェンバッハ・キッカーズであり、コーチや選手たちだった。
 オズワルドという優れた監督の下、コーチ兼任だったクルト・シュライナーによる講習会も驚きだった。取材を通して仲良くなった選手の一人に、19歳のエンゲルベルト・クラウスがいた。彼の個人技による突破は、短いパスをつなぐチームの攻撃のなかでの強いアクセントになっていた。
 私は少年のような顔つきの彼が「日本の目標はオリンピックだって。あの大会は僕たち(セミプロ)よりレベルの低い選手が出る。僕の目標はワールドカップに出た後、スペインでプロになることだ」と、こともなげに語っていたのを覚えている。
 1962年チリ大会のドイツ代表に選ばれたことを後で知ったが、2年前にスウェーデンのクラブチームが来日し、ようやく世界への扉が開かれようとした当時の日本にとって、このクラブの影響はまことに大きいものだった。私は特に何人かの選手と親しくなり、アマチュア一点張りの日本スポーツから初めて外の世界を覗いた気がしたものだ。
 そのキッカーズのホームを訪ねると、現在はブンデスリーガ2部ながら、2万人程度収容のスタジアムを持ち、客席をイス席に改装していた。休み期間で誰もいないスタジアムに入り、写真を撮りながら、小さなクラブが1901年の創立以来、絶えることなくアマチュアがセミプロになり、今、プロとしての運営が続いていることに、ドイツとヨーロッパのサッカーの原型を思い知ることになった。
 そしてフランツ・ベッケンバウアーたちの74年大会の優勝も、90年のタイトルも、今回の好成績も、こうした原型に支えられているのだろう。人口10万人余の町のクラブは、今も私に新しい刺激を与えた。


(週刊サッカーマガジン 2007年1月2日号)

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