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ベルリン:宴の後のオリンピア・シュタディオンで、ジダンとカンナバーロ、仏伊の長かった戦いを思う

 歓声も、拍手も、歌もなかった。巨大なスタジアムと、それを囲む広大な地域は深閑としていた。
 2006年7月10日、決勝の翌日の午後、私はベルリンのオリンピア・シュタディオンの外周を歩いていた。すでに片づけが始まっていて、解体されたパイプ類が積み重ねられていた。
 地下鉄の駅からディーバーンの駅までぐるりと歩きながら、私は「宴の後」を実感していた。


アンリを倒したプレーは?

「サッカーは何が起こるかわからない」
 多くの監督やコーチは言う。前日の決勝もまた、そうだった――とスタジアム前の大通りを歩きながら思う。
 先制点はフランス。ジネディーヌ・ジダンのPKだった。ペナルティエリア内、左寄りにボールを追ったフローラン・マルダをファビオ・カンナバーロとマルコ・マテラッツィが挟むようにして防ごうとしたとき、笛が鳴った。マテラッツィの高く上げた左ひざが当たったのか、カンナバーロが押したのか――アルゼンチン人の主審、オラシオ・エリソンドに“ためらい”はなかった。キックオフから6分後だった。
 その前にイタリア側は、1分にカンナバーロがティエリ・アンリに体当たりをして倒し、5分にジャンルカ・ザンブロッタがイエローカードを出されている。カンナバーロに警告は出なかったが、記者席から見た彼のプレーは、アンリがジダンへバックパス、そのまま前に出ようとしたところにぶつかったもの。ボールに目線が行っているアンリに対し、相手とボールの双方を見ることのできるカンナバーロの方が、十分に心と体の準備をしてぶつかっていた。世界トップのイタリアのDFらしい計算ずくの体当たりに、アンリはしばらく場外に出されたほどだ。
 ザンブロッタは中盤での奪い合いからドリブルし、大きくなったところをパトリック・ビエラに奪われると、自分の走る勢いそのままに、ビエラの足をなぎ払うようにタックルに入ったもの。
 二つのプレーはイタリア側のこの試合にかける強い意思の表れだろうが、その激しさの残像が主審に影響したのかどうか――。
 キッカーのジダンは、この7分のPKをいつもの右足でゴール左下への強いシュートではなく、右足のチップキックで右上を狙った。完全にGKジャンルイジ・ブッフォンの逆を突いたボールは、ふわりと上がり、クロスバーの下に当たって落下、いったんゴールラインを越えてリバウンドし、ゴールの外へ出た。ゴール=意表を突くというより、激しく仕掛けてくる相手に対するジダンの“皮肉”だったのかもしれない。


長身、マテラッツィのヘッド

 しかしイタリアは強攻する。19分にマウロ・カモラネージが右CKを取り、アンドレア・ピルロが蹴った。高く上がったボールは中央ややファーよりに落ち、マテラッツィが高いジャンプで叩き込んだ。193cmのビエラが競ったがタイミングが合わず、同じ193cmのイタリア人が頭一つ以上高いところでとらえた。
 マテラッツィは9分後にも同右CKを叩く。リリアン・チュランがクリア、直前にマテラッツィのファウルがあり、フランス・サポーターは一息つく。
 後半はフランスの攻めが目立ったが、ゴールは生まれず延長に入る。ここでもジダンの見事なヘディングシュートがあったが、GKブッフォンが防いだ。そして、イタリア側のそれまでの挑発にジダンの“頭突き”が出た。
 PK戦はフランスの2番手、ダビド・トレゼゲ(100分にフランク・リベリーとの交代で出場)がクロスバーに当てて失敗。4人ずつを終えて4−3となった後、先攻のイタリア、ファビオ・グロッソが決めて5−3となった。
 98年大会の準々決勝では、0−0の後のPK戦でフランスが4−3で勝った。2000年のEURO決勝でも、フランスは0−1から同点にし、延長ゴールデンゴールで勝った。
 イタリアの、フランスとジダンに対する苦い記憶は、新しい喜びとなった。
 その2試合で辛い経験をしたカンナバーロはどんなにうれしいだろう――。
 そのEURO2000の決勝は、全盛期のジダンとフランスの体力的な強さに屈した。カンナバーロのヘディングミスから同点ゴールが生まれ、若手を送り込んだ相手のスピードに、彼のサイドを崩された。そのゴールデンゴールを決めたのがトレゼゲだった。そのとき隣の席にいた大記者、ブライアン・グランビルは「カンナバーロがダメだな」と言ったのを、今も覚えている。
 最高の攻撃を作るジダンと、最強の守備プレーヤーとの長い戦いの最後は、カンナバーロに栄冠が与えられた。
 シュタディオン駅の階段を下りながら、私はプロフェッショナルの息の長い戦いの面白さをかみしめていた。


(週刊サッカーマガジン 2007年2月20日号)

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