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北フランス、800キロを走り、西ドイツ国境沿いの町へ…

 沢辺カメラマンの車に同乗した私は、北フランスの工業地帯を抜け、見渡す限り畑が続くシャンパーニュ地方へ。生まれて初めて走る土地、言葉も通じにくかったが、フランスにも多くのサッカー好きの人々がいました。


6月12日(火)14日(木)パリ→リール→ランス→ストラスブール

 三菱ランサーは快適に走っていた。1984年6月14日、9時40分にリールのホテル・カールトンを出た。私たちは、まず、ドウアイ(DOUAI)を目指し、セント・ケンタン(ST.QUENTIN)を経て、ラン(LAON)を通り、ランス(REIMS)に入ろうとしていた。

 北フランスの工業地帯フランドル(LA FLANDRE)と呼ばれる地方からシャンパーニュ地方(LA CHAMPAGNE)に移るあたりだった。
 6月12日、ヨーロッパ選手権大会の開幕ゲームを取材し、次の日、6月13日にランス(LENS)での1次リーグ1組の第2試合ベルギー対ユーゴスラビアを観戦し、この日、ストラスブールでの1次リーグ2組の西ドイツ−ポルトガルを見るための移動だった。
 今度のヨーロッパ選手権の旅はフランス国内については、同国の誇る鉄道を利用するつもりでいた。
 日本でバカンス・チケットという15日間(期間は何種類かある)通用のパスを買っておいたのも、そのためだが、西ドイツでフリーのカメラマンとして活躍している沢辺克史(さわべ・かつひと)君が、西ドイツから車を持ってきていて、パリ・ランス間は車で行くから乗ってみてはと誘ってくれた。鉄道はまだチャンスがあるので、とりあえず12日にパリを出て、ランスまでドライブした。
 ランス(LENS)というのはパリから北へ203キロ、人口4万足らずの小さな町だが、近くにアラス(4万5000人、20キロ)ドウアイ(4万5000人、22キロ)リール(15万7000人、34キロ)などの町がある。あたり一帯は工業地帯として知られ、ボタ山がそこここに見られる炭鉱地帯でもある。


ベルギーの若者に驚く

 ランスでの試合は、ベルギーに近いこともあってスタジアムはベルギーの応援が圧倒的だった。その声援を受けてバンデンベーグが29分に1ゴールを挙げた。スルーパスをとり、中へターンをしてシュートにかかるところは、なかなかのものという感じ。ただし、シュートはDFのカタネッチの体に当たってコースが変わったGKのシモビッチには、気の毒だった。44分にもベルギーは右CKを若いシーフォがファーポスト側(というより、ペナルティエリアの逆サイド)へ大きく振り、DFのグルンがヘディングを決めた。今度はGKシモビッチの判断ミスか?
 ユーゴスラビアは相変わらず、見事なボールキープを見せる。ボールの持ち方のうまさには感心の他はないが、これも、いつもの例でシュートに決定的な確実さがない。
 試合中のメモにはこうある。「こんなに足元でボールを持つのだったら、トウキックをマスターすれば小さいモーションで相手の意表(タイミングの)をつくからユーゴスラビアの得点力はアップするのではないか」――それはともかく、大西洋に近い(ベルギーのブルージュから100キロ、英仏海峡のカレーから80キロ)のここの夜はずいぶん冷え込み、半袖のボクにはとてもこたえた。
 11日(日本時間)に大阪を発ち12日にロンドンを経てパリに着き、その夜に観戦し、夜中に雑誌の原稿を書き、昼は車で移動したのだから、睡眠不足もいいところ。疲れた体でここで風邪でもひいたらこと。思い切って後半はプレスルームのテレビで見ることにした。
 この試合での一つの驚きはベルギーの18歳シーフォ(SCIFO)。ボールの扱いが柔らかく、ベルギーの頑健さのなかで、彼の“軟”が目立っていた。この若者にミッドフィールドからのパスを平気で任せているのももう一つの驚きだった。2点目のCKは彼の作だが、CKになったのも彼のスルーパスからだった。


工業地帯から田園風景へ

 こうして13日夜は沢辺君とリールのカールトンホテルで泊まり、旅の第三日は、再び彼の三菱ランサーで、ストラスブールへの500キロ余のドライブとなった。
 ストラスブールはパリから真東486キロにあって、ドイツとの国境、ライン河の左岸にある。
 隣国西ドイツからは大量のドイツ人サポーターが乗り込んでくる。またフランスで働いているたくさんのポルトガル人もバスをチャーターして駆けつける。当然ドイツの記者、カメラマンも押し寄せる。ためにストラスブールの「スタード・ド・ラメイノー」の入場券は売り切れ、記者席はスペースがないとかで、12日にパリのプレスセンターで各会場の入場券をもらったときに係員から「ムッシュウ・カガワ、あなたのストラスブールの切符はありません」と言われていた。沢辺カメラマンも同じ取り扱いらしい。止むなく、大会をバックアップする関係の人たちに、個人的に入場券を回してもらうように頼んだ。彼らは了解し、ストラスブールのヒルトン・ホテルで受け取ることになっていた。
 リールからランス(REIMS)までの200キロは高速道路ではなく、まあ日本でいえば県道というクラスだが、走り心地は良い。リール、アラスの工業地帯を抜け、見渡す限り麦畑の間を走ると、つくづくフランスの豊かさを思う。日本は田畑をつぶし、工場を建て、世界の生産工場のようになっているが、自分たちの食べ物をまるまる輸入しているいまの日本で、この北フランスのように目の届く限り畑というようなところがあるのだろうか。
 ランス(REIMS)から高速に入る。この町はパリから141キロ、大寺院が高速から望見できる。近く一帯はシャンパンの産地。そういえばパリの観光案内所でもらったパンフレットに、ランスとエペルネ(EPENAY)のシャンパーニュ地方のバスツアーの案内が載っていた。醸造会社の酒蔵などにも訪れるらしい。
 われわれには、そんなことはなく、高速へ入ったところのレストランでミネラルウォーターとジュースを買い、それを飲みながらドライブを続けなければならない。
 このREIMSへ入る少し前にLAON(ラン)という不思議な町があった。丘の上に協会や城が見え、ぜひ、訪れてみたいところだった。
 REIMSからストラスブールまでは高速道路を突っ走るだけでよかった。料金所が3ヶ所ありそのゲートでの列が、次第に増え、ポルトガルの旗をつけたバス、ドイツのバス、ドイツ人の車が目につきはじめた。
 地形も、北フランスの平坦とは違い、起伏が大きくなり、景観は森と畑から、森と放牧地へと変わっていた。林の中には白樺もあり、ドイツ的な風景といえた。
「ここらがロレーヌだね」
 ドイツとフランスの抗争のたびに問題となった国境の地帯。「アルザス・ローレン」(わたしたちは学校でこう習っていた)の一部に入ったのだった。
 道路にあらわれる標識でメッツ(METZ)やナンシー(NANCY)などの名がある。町の名としては馴染みはなくても、ともにフランス一部リーグのチームの名としては知っている。
 そして先ほど通過したREIMS(ランス)のスタード・ド・ランスに有名なレイモン・コパがいて、ある時期に大活躍したのだ。


サッカー人の好意に感激

 生まれて初めて走る土地、言葉も通じにくいフランスにいながら、サッカーが好きというだけで、まわりの地名に見覚えや、聞き覚えがあるのがうれしかった。
「ザールブリュッケンはここから」の標示を見る。釜本邦茂君が1968年1〜2月に西ドイツへ留学したとき、ザールブリュッケンの体育学校でトレーニングした。そのときザールブリュッケンにいたユップ・デアバルさんが彼を指導した。わずか2ヶ月の間に、見違えるようになった釜本君を見て、私たちはどれほど喜んだか――クラマーさんとともにデアバルさんは、彼の進歩にとって忘れることのできない人となっている。そのデアバルさんが、いま西ドイツ代表チームの監督。
 欧州チャンピオンとしてのタイトル防衛戦の第1戦が今夜8時にキックオフされるのだ。
 道が急に下りになるとロレーヌの台地からライン河沿いの平地へ、アルザスへおりて行くのだった。
 ストラスブールのホテル・ヒルトンのフロントには、私宛に、沢辺君のも含めて入場券が置いてあった。旅の中でのサッカー人の好意がうれしかった。


(サッカーマガジン1984年9月号)

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