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故・田辺氏が紹介した「国境の村」で旅の面白さを発見

 サッカーの試合が面白いときは旅そのものがハードであったり、試合がもう一息のときでも楽しい見聞が生まれてくる。サッカーをテーマに旅する日々は、わたしには喜びの日々だ。今日はアルザスの国境の村へ……。


6月14日(木)〜15日(金)ストラスブール→セイベナルト

 6月11日に大阪を飛び立ち、12日はパリで開幕戦、13日はランスで1組の第2試合(ベルギー−ユーゴスラビア)を見たあと、14日朝から長距離のドライブでストラスブールに着き、午後4時15分キックオフの西ドイツ−ポルトガルに駆けつけた。フランスの東北部、西ドイツとライン河を隔てて国境を接するアルザス県の首府ストラスブールは人口40万、大河ラインの河川港として古くから発達し、市中心部には12世紀から15世紀にかけて建立されたカテドラル・ノートルダムの142メートルの光塔がそびえている。
 大会会場のスタード・ドラ・メノウは市の南部にあり、ラーシング・クラブ・ド・ストラスブール(83−84年フランスのプロフェッショナル・リーグの中位)の本拠地でもある。収容人員4万8,984人のところ、4万7,950人の有料入場者で、ほぼ満員。
 白いユニフォームに黒のショーツ、白いストッキング、西ドイツ代表はルムメニゲは別として、いずれもがっしりした体つき。ポルトガルはスリムな体に、赤のユニフォーム、緑のショーツ、赤のストッキング。
 わたしにとってデアバル監督の西ドイツ代表のタイトルマッチを見るのは、80年欧州選手権、81年コパ・デ・オロ、82年スペイン・ワールドカップに次いで四度目。
 この日のラインアップはGKシュマッヒャー、DFは、シュティーリケをリベロに、K.H.フェルスターを中央、右に兄のB.フェルスター、左にブリーゲル、MFはブッフバルト、ロルフ、ブレーメ、そしてルムメニゲ、二人のトップはフェラーとアロフス。80年に代表チームに入ってその力量を世界に示したシュスターが、それ以後は不参加。中盤の、いわゆる指揮官役がいないために、ルムメニゲに組み立てをやらそうという監督のハラらしい。
 ポルトガルはジョルダンをトップに置き、MFを5人にし、相手ボールのときには10人が防ぎまわる。
 強い陽射しの中では西ドイツの動きはドターッとした感じ。彼らの筋肉マンのような小太りの体つきでは軽やかなターンというわけにはいかない。ただ一人スマートなルムメニゲのドリブルと、左のブリーゲルの突進からチャンスが生まれるが、フェラーとアロフスらがビシッとしない。アロフスは80年の欧州選手権のオランダ戦でハットトリックを演じたこともあるのに、この日は、どうもインパクトが正確ではない。
 あの時は右サイドにカルツとシュスターがいたから、彼らの強いキック力によって、右から左へのクロスがゴール前ならファーポストへ、中盤なら逆サイドのウイングポジションへと楽に振った。それに対して、左サイドには左利きのハンジ・ミュラーとブリーゲルの攻め上がりがあって、攻撃展開は幅が広く、彼らの機動力、大きな動きが威力を発揮していた。残念ながら、それ以後の西ドイツ代表にはそんな野性味がなくなっている。


故・田辺五兵衛氏の誘い

 移動に次ぐ移動で、いささか疲れているところに、欲求不満の試合で気分は落ち込む。ただし、旅は人生と同様に、「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」、次の日にはうれしいことも待っていた。
 ストラスブールで一泊したのは、この町には子どものときから興味を持っていたからだ。密林の聖者アルベルト・シュバイツァー博士は、ここの大学で学び、パスツールはここの大学の教授だった。それにここで西ドイツ代表チームの宿舎へでも行って、デアバルさんにゆっくりサッカーの話を聞かせてもらいたかった。それが、試合後に彼らはさっさとパリへ戻ってしまったので、翌6月15日は、見物と休養の日となった。
 朝のうちは、大阪や東京と、企画の仕事のために電話のやり取り、午後から市内を散歩。プレスセンターで、16日のストラスブール−パリ間の航空機の予約を済ませてから、まだ時間があるのでタクシーを飛ばして北へ向かった。
 目的はセイベナルト(SCHEIBENHARDT)。ストラスブールから70キロばかり北にある村で、地図を見ると、ライン河に並行して走る県道を北上してローテルブールまでいき、そこから西へしばらく走ればいいハズだった。
 往復140キロのドライブの目的を、日本協会の機関誌サッカーの71号(昭和42年7月号)に掲載された故・田辺五兵衛氏の「烏球亭雑話」の一文で紹介しておこう。
「フランス領アルザス地方のセイベナルト村に、サッカーのチームはあるが、グラウンドはなかった。隣のドイツ領シャイベンハルト村にはグラウンドはあるがチームはなかった。そこで、このフランスのチームはリーグ戦のホームグラウンドの試合を、ドイツ領で行なった。彼らは、フランス領を離れて国境へと歩いていった。税関の役人は、ただ両チームの得点を記録するだけであった。という話がFAニュース6月号に載っている」
 アルザス地方はドイツとフランスの国境にあって、両国の戦争のたびに帰属が変わったという歴史がある。学校の教科書でアルフォンス・ドーデの「最後の授業」(この日以後フランス語を教えてはいけない)を読まれた方もあるだろう。そういうアルザスの北の端にある村、国境をこえて試合をしにいくというグラウンドを見ておきたかったのだ。


「国境の村」に旅の喜びを

 タクシーがボクを運んでくれた国境は、川に架かった20メートルほどの橋だった。橋の両側に遮断機があり、フランス側に巡査が一人。ドイツ側に二人いた。いまもドイツとフランスの往来は面倒な手続きを必要としないハズだからと、わたしは、パスポートを見せ、ドイツ側へ行きたいというと、すぐOKしたが、タクシーはフランスからドイツへ行ってはいけないという。英語が通じないし仕方がないから、まあ少し歩いてみようと、橋を渡ってドイツ側へ。
 ドイツの警官は、英語が通じるので理由を説明する。
「かつてひとつだった村が川を境にフランスとドイツに分かれ、その村民が国境をこえてグラウンドを借りに来るというのが面白いので、そのグラウンドと村の写真を撮りに来たのです」
「フーン。それでキミは、ああ、ヨーロッパ選手権を取材に来たのか。昨日の西ドイツの試合はテレビで見たヨ」
「タクシーは国境をこえたらいかんとフランスの役人は言っている」
「別にかまわないヨ。グラウンドは、この道を左へ曲がって坂を上がれば5メートルのところにあるヨ」
 自分もサッカーが好きで、あそこにいる、もう一人は、もう少し大きい町のチームのHBをやっているんだ、というドイツの警官は、フランスの巡査にボクの目的をフランス語で説明し、タクシーも通れることになった。彼らの話では、ドイツ側にもチームができて、しょっちゅう試合をしている。いわば週末は村対抗の国際試合というわけ。
 ドイツ側にあるグラウンドは、芝生の飢えかえの時期とかで、ゴールは外してあり、少年が二人でボールを蹴っていた。
 ハンス・オッフェンバッヒャーと名乗るドイツ側警官は、ついでにもう少しドイツ領を北へ走ったらランダウという町があり、そこなら、もっといいグラウンドがあるのに、などと言う。「いや、わたしには、この国境の村というのが珍しいのです。なにしろ日本は海に囲まれていて、国境という感覚は全く分からないのでネ」と辞退した。
 ライン河へ流れ込むであろう、この国境の小さな川は、上流にマスでも住んでいそうなほど、きれいに澄んでいた。その橋をドイツ領からの農作期を終えてトラクターで帰ってきたフランス人が、役人たちに手を振って渡って行った。
 帰りの車の中で、わたしは、ゴキゲンだった。いまの西ドイツとフランスの友好関係から、もと同じ村だったという両国の二つの村の住民たちは気楽に付き合え、気楽にサッカーができるのだろう。17年前に英国のFAニュースで紹介されたこの「国境の村」の話も、このごろでは、しいて取り上げるほどのことはないのかもしれない。
 そんなところへ出かけていく、オマエも、まあ物好きだな、と自問自答しながら、ともかく、きにかけていた「国境の村」を見たことで満足した。そして、サッカーを単に勝ち負けや、ボールテクニックからだけでなく、色んな広い見方をする面白みを教えてくれた故・田辺五兵衛さんに、そっと語りかけた。「田辺さん、あなたの代わりに見てきましたヨ。国境のシャイベンハルトとセイベナルトの二つの村を」。


(サッカーマガジン1984年10月号)

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