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イダルゴ監督が追求したサッカーの完成を見た

 8月25日夜の国立競技場での少年たちのカマモトコールは、いつまでも、わたしの記憶に残るでしょう。サッカーという競技を、この国で広い層に定着させたいと願う、わたしには、トップ選手たちのがんばりとともに、少年たちに確実に浸透している現状は、まことに心強い見方です。欧州選手権とロサンゼルス・オリンピックと84年の二つのビッグタイトルを手にしたフランスは1970年には登録プレーヤー70万人(1万2880クラブ)、80年は141万人強(2万411クラブ)となり、少年層への普及ぶりは目覚しいものがあります。
 そのフランス国内を巡る「欧州選手権の旅、“アレ・フランス”とともに」は、今回は4回目、ラインからロワールへ、アルザス−ブルターニュへ移動し、フランスの快勝を見るところです。


6月16日(木)ストラスブール→ナント

「これがロワール河か」――いささか茶色の濁りをおびた、ゆったりした流れが車窓にあった。
 84年6月16日、9時06分パリのモンパルナス駅を出発した「ナント・ルクロワシック行き」の急行はシャルトルス、ルマンを過ぎ、つい先ほどアンジェの駅を出たばかりだった。
 6月14日にストラスブールで西ドイツ代表がポルトガルと0−0で引き分けた試合を見たあと、15日は一日、同市でゆっくり過ごした。足をのばして西ドイツとの国境の村を訪ねた。そして、この日、午前5時に起きて、ストラスブール・ヒルトンホテルを出て、エンツアイム空港から(7時離陸)パリのオルリー空港へ飛び、オルリーからタクシーでモンパルナス駅に駆けつけて、この急行列車に乗ったのだった。
 フランスはヨーロッパで、鉄道がもっとも発達している――と聞いて、出発前に、バカンス・チケットを購入しておいた。名のとおり、バカンス期間に国内の鉄道を自由に乗れるパスで、ユーレイル・パス(これは欧州13ヶ国通用)と同じような仕組み。わたしのは15日間有効(ファースト・クラス)。これまでのパリ―ランス(リール)、ランス(リール)―ストラスブールの移動は、すべて車だったから、今度が使いはじめ。
 はじめ、一等のコンパートメントに入ってみたが、大きなトランクを置くスペースが見つからないため、シート席の一等車へ。さいわい入口に荷物用のスペースがあって一安心。座席は二人並びが通路をはさみ、わたしはトランクに近い端っこの一人がけに座った。日本の新しい新幹線と同じで、進行方向に背を向けたままで固定してあるが、ゆったりしているので気にならない。
 この日の目的はナントで午後5時15分キックオフのフランス−ベルギー戦。わたしにはアルザスのストラスブール(パリから486キロ)から大西洋に流れ込むロワール河の河港ナントまでの、フランスを東から西に横断する850キロの旅だった。
 ロワール河流域は、温和な気候と美しい風景に恵まれ、昔から畜産も盛んなため、ルネサンス期を中心に王侯貴族がシャトー(城館)を建設し、この城めぐりがいまフランス観光の売り物のひとつとなっている。観光コースはジャンヌ・ダルク(1412−32年)で有名なオルレアンあたりからはじまり、彼女がシャルル7世に拝謁して神のお告げを伝えたシノンの城などが核心部になるらしい。そういえばアンジェで下車した中に、明らかにモデル嬢と見える華やかな一群があった。17の円塔を持つ城塞をバックに、何かの撮影でもあるのだろうか。
 前日にいたライン河畔、ストラスブール。いやドイツ読みにシュトラスブルグといっても似合いそうなかの地のしっとりした空気と違い、昼のロワール谷の、まばゆいばかりの明るさに、フランスという国の多様性を思うのだった。
 NANTES、フランス式にハナにかかってナァーントという市の人口は42万、パリから380キロ、ブルターニュ大公の居城だったという15世紀建造の古い城(カテドラル・デュカル)がある。
 駅(ガル)から、お城を右に見てタクシーは走り、ロイヤル広場の近くのセントラル・ホテルへ。


フランスの速攻

 試合の行なわれるスタド・ド・ラ・ボージョワールは市の中心部の北。エルドル河畔の博覧会場近くに新しく設けられ、収容5万1,287人、スタンドが空に描く曲線が美しく、周辺もまた広々している。
 第1戦で強敵デンマークを破ったフランスが、堅い守りを誇るベルギーをどのように崩すか――夏のまだ高い日のなかで、ラ・マルセイエーズを歌い、トリコロール(三色旗)を握るフランス人と同じように、こちらもワクワクする。国歌の間、シクスはガムを噛み、ラコンブは歌い、ティガナは祈り、ジレスとプラティニは昂然と顔を上げていた。
 フランスの攻撃は、シクスのドリブルからはじまった。78年のワールドカップでイタリアからいきなり1ゴールをもぎ取ったときのように、シクスは、驚くほど早かった。彼に次いでフェルナンデスも突進した。思いがけぬフランスの速攻にベルギーはファウルタックルで応戦した。そして4分、そのひとつが命取りになる。ゴール正面やや右より25メートルのFKをバチストンが強シュート。右角に近いバーに当たって跳ね返ったボールをプラティニが拾い、あっさりゴールを割った。
 リバウンドのボールに飛び込んでいくプラティニのゴールへの意欲が、この日のフランスの意気込みなのだろうか。1−0のあともトリコロールの攻めは激しく続く。面白かったのはフランスは右のバチストン、中央のポッシ、左のドメルグの3FB(アモロが第1戦で赤の退場処分)、フェルナンデス、ジレス、ティガナ、プラティニ、ジャンジニの5人がMF、前はシクスとラコンブの2人。MFの5人はフェルナンデスが豊富な運動量にモノを言わせて長い突進を見せ、ジレスとプラティニがゴールマウスにあらわれる。
 特に目立ったのは、やや強い風を利して長い、深いクロスがベルギーDFラインの背後へどんどん出たこと。オフサイドトラップを得意としたベルギーが、ギリギリの所から走りこむシクスへのパスに脅かされてラインが後退する。と、MFに人数を溜めておいたフランスが広い地域に散開できて、彼ら得意の短いパスが生きてくる――ベルギーのカウンターは悪くはないが、一度攻め込んでも、跳ね返ってきたボールをフランスのMF陣に取られて、連続攻撃ができない。と同時にフランスDFからMFへ出るパスが実に効果的で、すぐ攻撃発起点となる。DFの攻撃のセンスが良いのか、MFやFWの受け方がいいのか――もちろん両方だろうが、敵ボールを取ってから攻撃に移っていくときのスムーズさとスマートさに、フランス人でなくても、手を叩き「アレ・フランス」と怒鳴りたくなる。


変幻自在

 もともとフランスは守りは得意ではないと思っていたのに、チームの調子のよいときは、こんなにうまくいくのか――相手の出方を見て前線もMFもさあーっといっせいに後退し、さあ、来いと守りの体勢を整えて、ベルギーのパスを受けるスペースをなくしてしまう。ベルギーのお株を奪う、巧みな守りに、相手がじりじりしてきた32分、プラティニ→ティガナ→プラティニ→ジレスと黄金のトリオのパスをジレスが締めくくって2−0とする。シュートする前に、はっきり「ジレスの角度へ入った」と見えたから、これはベルギーのパフにもどうしようもなかったろう。
 がっくりきたベルギーになおフェルナンデスのヘディングで44分に3点目が入った。
 後半もフランスの勢いは衰えず、シクスのドリブルに対する反則でプラティニがPKで4点目、さらにロシュトー(ラコンブに代わった)へのファウルで得たFKをジレスがロブを蹴ってプラティニがヘディングを決めた。
 ナンバーワンスターのハットトリックというおまけがついて、試合後はお祭り騒ぎ。気分を良くしたフランス代表は、イヤな顔もせず、次々にマイクの質問に答え、ジレスやティガナはファン(厳重な警戒をもぐりこんでくる)や役員、記者たちとの記念撮影に、何度もつきあうのだった。


物静かなイダルゴ監督

 プロフェッショナルとして今日のような日が一生に何度あるだろうか――。満員に近い(4万5,000)観衆の前で、そしてテレビを注視するファンの前で、個人もチームも会心のプレーをするのは――。わたしはTVのインタビューに、物静かな口調で答えるイダルゴ監督を間近に見ながら、彼が追及してきたサッカー、ゴールを目指し、点を取る喜びを味わうサッカー、子どものような楽しみを第一にするサッカーが、とうとう、この高いレベルで成功したことがうれしかった。


(サッカーマガジン1984年11月号)

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